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「開港のひろば」第120号
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資料よもやま話
幕末・維新期の駐屯軍とスポーツ
149年前の横浜の陸上競技大会
競馬やサッカー、クリケットなどはおよそどんな競技であるか、わかるが、当時の陸上競技とはどんなものだったのか、1864年5月5・6日に横浜で開かれた陸上競技大会を見てみることにしよう。この大会は、当館編『横浜もののはじめ考』第3版(2010年、132〜133頁)に、日本で初めて開催された本格的な陸上競技会として取りあげられている。以下、この本の記述を元に、新聞記事も使って少し詳しく見てみよう。
5月5・6日の2日間にわたって横浜にいたイギリス陸海軍が中心となり、居留民も参加して、旧横浜新田の一画、英領事館付属監獄のグラウンドで開かれた。この頃のイギリス駐屯軍第20連隊は分遣隊200名足らずの規模で、本隊は来駐しておらず、山手で不自由なテント生活を送っていた。競技結果を掲載した英字新聞『ジャパン・ヘラルド』5月7日号付録には種目や優勝者名、記録、賞金の額などが載っている。
どんな競技がおこなわれたのだろうか。徒競走・ハードル走・サックレース(麻袋に両足を入れて跳びながらゴールを目ざす競技)・重装備行軍走・目隠し徒競走・片足跳び走・1マイル(1.6キロ)走、投てき種目としてクリケットボール投げ・ハンマー投げ・24ポンド(約11キログラム)砲丸投げ、跳躍種目として高跳び・幅跳び・棒高跳び・三段跳びが繰りひろげられた。ハードル走は75・100・150・300ヤードに分けておこなわれた。現代の陸上種目と同じものもあるが、今では余興としか思えないような種目も混じっている。
また参加選手を軍人、居留民、あるいは16歳以下男子などと制限して競わせたものもあった。
各種目の1位と2位の選手には賞金が出された。多くのレースは10ドルくらいであったが、「英国公使オールコック夫人賞」と冠のついた150ヤードハードル走は最も高額で、優勝賞金は25ドルだった。そのためであろうか、新聞記事には、大接戦となったとある。
しかし全レースのなかで最も見応えがあったのは、最も距離の長い1マイル走であった。新聞記事はその白熱したレースを伝えている。
疑いなく今大会で最高のレースとなった。全選手がもてる力と技を駆使して競った。約20名がスタートラインに立った。名前はわからないが、一人の選手が7周目まですばらしい走法でトップを走っていたが、最後の1周半ばで英第20連隊のブラウント大尉がすばらしいスパートを見せ、まるで鹿が跳躍するかのような見事な走りで前を走る選手を抜き去った。エクリン大尉はわずかに及ばず2位となった。
当然、記録的には見るべきものはないが、100ヤード(約91メートル)走の優勝タイム11秒は、100メートルに換算すると約12秒になる。居留民マレーの記録である。
フランス軍が提供したレース
フランス軍の支援もあった。仏軍艦デュプレックス乗組士官と海兵隊指揮官提供の2つのレースがおこなわれた。「フランス帝国カップ」100ヤード走と、「連合軍カップ」150ヤードハードル走である。優勝者はどちらもイギリス軍艦乗組員で、賞金10ドルを獲得した。新聞記事にフランス人の名前が見あたらないので、かれらがレースに参加したかどうかはわからない。
大会最後に、敗者復活戦と言える「残念賞」100ヤード走が2回あり、どの競技でも入賞しなかった選手たちが参加し、優勝者には10ドルの賞金が贈られ、大会は成功の裡に閉幕した。
この5月の競技大会から間もない翌6月から8月にかけて多数のイギリス軍が次々と横浜に来駐してきた。本国から海兵隊が、香港から第20連隊本隊が、上海からは第67連隊、砲兵隊、工兵隊、第29ボンベイインド人歩兵隊がやって来た。
8月末、英・米・仏・蘭四カ国連合艦隊が下関に向かい、9月、下関戦争が勃発した。その間、英仏駐屯軍は横浜居留地の守りに就いた。こうして競技大会で活躍したイギリス陸海軍兵士たちは本来の任務に就いた。
(中武香奈美)