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「開港のひろば」第120号
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企画展
友好都市提携40周年記念
上海と横浜 波濤をこえて
−夢・汗・涙が都市をむすぶ
現在、横浜港の貨物取扱量の最多、約四割を占めるのが上海港との輸出入です。この二つの港のつながりは古く、幕末にさかのぼります。
1843年、アヘン戦争に敗れた清朝が欧米諸国と結んだ南京条約を受け、上海は開港され、県城(市街地)の北側に外国人が暮らす租界が誕生します。それから16年後の1859年、横浜は安政五カ国条約にもとづき開港され、外国人居留地が開かれます。横浜と上海は、そうした外国人が暮らす場所、居留地(租界)を中心に発展していきます。
二つの街を行き来したのは、まず、欧米人でした。横浜が開かれると、新たな土地で商売を始めようと、上海から商人たちがやってきました。当時横浜で発行された英字新聞には、ホテル・洋品店・雑貨店など、上海の店の広告が多数掲載され、人や物資の往来の頻繁さを物語っています。
上海と横浜。この二つの都市に関わったキーパーソンの一人は、イギリス人外交官、ラザフォード・オルコックです。オルコックは上海の開港3年後に領事となり、外国人の自治権を確立した第2回上海土地章程や中国税関の外国人総税務司制度をつくりました。その後、初代駐日英国総領事(後に公使)として開港直前の横浜にやってくると、幕府が条約文の神奈川とは異なる「横浜」に着々と居留地を建設していました。オルコックは第2回上海土地章程をモデルとした規則の制定を試みますが、幕府の承認を得られず、その夢はやぶれます。横浜では外国人自治は確立しませんでした。
1864年、上海・横浜間に初めてイギリスのP&O社が定期航路を開設し、仏米の会社がこれに続きます。1875年には郵便汽船三菱会社が定期航路を開始し、多くの日本人や中国人も互いの地を訪れます。
今年が1973年の友好都市提携から40周年となるのを記念し、開港期から昭和初期頃までを中心に、二つの都市をいきかった先人たちの足跡をたどります。
(伊藤泉美)