横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

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展示余話
「スポーツがやってきた!」展と寄贈資料

ここでは、「スポーツがやってきた!近代横浜スポーツ史」展の開催期間中に、ご寄贈いただいたスポーツ関係資料を紹介したい。

Y校漕艇部(そうていぶ)部歌と関係資料

展示では、北原白秋(きたはら はくしゅう)が作詞した横浜商業学校(現在の横浜市立横浜商業高等学校、通称Y校、以下Y校)漕艇部(ボート部)部歌の白秋自筆原稿を展示した(写真1)。原稿は、部歌の一番から四番までを、一番につき一枚ずつ記した原稿4枚と封筒である。封筒は、「東京市外砧(きぬた)村大蔵(おおくら)」の北原白秋から、「横浜市 市立横浜商業学校Y校端艇部 角田純良」に宛たものである。「部歌在中」とある。

写真1 北原白秋自筆 Y校漕艇部部歌原稿
横浜市立横浜商業高等学校所蔵
写真1 北原白秋自筆 Y校漕艇部部歌原稿 横浜市立横浜商業高等学校所蔵

部歌が作成された昭和9(1934)年頃は、Y校漕艇部の全盛期であった。昭和8(1933)年に漕艇部は第七回明治神宮競技大会で優勝し、翌昭和9年、関東選手権大会で優勝、その年の8月には全国中等学校固定席艇選手権大会で優勝し、全国制覇を成し遂げた(『Y校七十周年記念誌』横浜商業高等学校編、1952年)。「全国制覇に勇名をとどろかせたボート部はY校生の憧れの的であり花形であった」(『Y校百年史』横浜市立横浜商業高等学校編、1982年)。漕艇部が活躍するなか、同部顧問であった角野政男の尽力により、北原白秋作詞、山田耕作(耕筰)作曲の部歌が誕生した。

展示開幕早々、高田共仁子氏より、Y校漕艇部員であったお父上羽生清(はにゅう きよし)氏(以下敬称略)が、『Y校百年史』編纂委員会に寄せられた原稿のコピーをいただいた。羽生清筆の「想い出」と題する文によると、「角野部長のお話では、Y校で立派なボート部歌を作ることになったが、作詩は当代一流の北原白秋先生にお願いすることになった。ついては部員が先生にお目にかかり、直接説明申し上げよ」とのことで、羽生と福川源治郎(ふくかわ げんじろう)の学生2名が、北原白秋宅を訪ねることとなった。昭和9年秋であった。白秋は、「諸君のボートを一度見たいと思う、それから部歌を作るとすれば、作曲は山田耕作先生になるでしょう」と語り、羽生らの来訪から約1ヶ月後、横浜を訪れ、部員が漕ぐ固定席艇に同乗し、横浜港を巡ったという。また白秋が語ったように、作曲は山田耕作が担当し、部歌は翌年の昭和10(1935)年に完成したという。

また高田氏より漕艇部部歌が録音されたカセット・テープもいただいた。寄せられた資料により、Y校漕艇部部歌誕生の背景がより鮮明になり、北原白秋自筆の部歌作詞原稿が、生き生きとした資料になった。

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