横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

表紙画像

展示余話
「スポーツがやってきた!」展と寄贈資料

ミッション・スクールとテニス

また展示では、横浜の学校とスポーツについても、コーナーを設けいくつかの資料を紹介した。共立女学校の学生が校庭でテニスをする様子を写した、共立学園所蔵の絵葉書もその一つであった。ここでは、展示開催中に松岡正樹氏よりご寄贈いただいた26点の絵葉書のなかに、捜真女学校の学生がテニスをする絵葉書があるので、紹介したい。

アメリカ婦人バプテスト外国伝道協会は、明治23(1890)年、名門女子大学スミス・カレッジを卒業し、教職にあったクララ・カンヴァース(Clara Adra Converse, 1857〜1935)を日本に派遣した。カンヴァースは、ネイサン・ブラウンの没後、その夫人シャーロッテ・ブラウンが山手居留地67番の自宅で始めた英和女学校を引き継ぎ、校長に着任した。明治24(1891)年には、協会からの資金をもとに、山手34番に新校舎を建設し、翌年には校名を新校舎建設のための寄附を最初に寄せたアメリカ婦人バプテスト外国伝道協会の前会長にちなみ、マリー・L・コルビー・ホーム(後にマリー・L・コルビー・スクール)とし、日本名を捜真女学校(現在の捜真学院)と定めた。同校は、明治43(1910)年、神奈川区中丸に移転し、現在に至っている。

ここで紹介する資料は、捜真女学校が中丸に移転後作成された絵葉書で、大正期に作成されたものと思われる。

写真2は、校舎の全景を写したものであるが、絵葉書の中央、校舎のある場所から坂を下った所にテニス・コート(①)が写っている。絵葉書には、袴姿でダブルスのゲームをしている女性4人がおり、コート際に袴姿の女性数名と、洋装の女性2人がいる。このテニス・コートがある場所は、植物園と呼ばれていた場所で、大正8(1919)年にロックフェラー夫人からの寄附により購入し、運動場とした土地であった(『捜真女学校九十年史』捜真女学校編刊、1977年)。テニス・コートの設置は、大正8年以降であったと考えられる。

写真2 捜真女学校全景 松岡正樹氏寄贈 当館所蔵
写真2 捜真女学校全景 松岡正樹氏寄贈 当館所蔵

写真3は、「捜真女学校運動場」と題した絵葉書であり、テニス・コートで、ダブルスをする女生徒が写っている。テニス・コートの奥には、遊動円木が設置されている。このテニス・コートは、写真2に写るテニス・コートではなく、写真2の右端の建物(第三校舎②)と、右から2軒目の建物(寄宿舎③)の間に設けられていたテニス・コートである。大正期、捜真女学校には2面のテニス・コートがあったことになる。

写真3 捜真女学校運動場 松岡正樹氏寄贈 当館所蔵
写真3 捜真女学校運動場 松岡正樹氏寄贈 当館所蔵

捜真女学校は、明治42(1909)年に「捜真女学校規則」を設け、従来2年制であった高等科を3年に延長し専門科とするなど、新たな学科課程を定めた。学科課程では、普通科5年、専門科3年(予科2年と本科3年)と定められ、普通科は5年間を通して、高等科は3年間、体育は必修科目であった。カンヴァース自ら体育の指導を行い、また和服で体育の授業を行うのは不便であるため、袴を着用し体育の授業が行われたという。2面のテニス・コートのほかに、体育館(雨天体操場④)も設けられていた。捜真女学校が体育、特にテニスに力を入れていたことがうかがえる。

横浜は西洋スポーツ伝来の地で、競馬やフットボール、野球など様々なスポーツが行われたが、女性がプレーするスポーツは、テニスとクリケットであった。横浜のミッション・スクールが作製した絵葉書に、テニスをする女子学生の絵葉書を見ることがある。西洋の教育システムを取り入れたミッション・スクールが、目に見える形で「新しさ」と「西洋」を示すものとしてテニスを取り上げたのであろうか。学校が作製する絵葉書にテニスが取り上げられているのは、興味深い。

上記の貴重な資料を提供下さった宮田共仁子氏、また絵葉書をご寄贈くださった松岡正樹氏には、深く感謝申し上げます。

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