横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

表紙画像

企画展
「上海と横浜 波濤をこえて」展示資料から

上海をかいま見た高杉晋作

文久2年4月29日(1862年5月27日)、千歳丸という一艘の船が長崎を出帆した。めざすは清国、上海。乗組員は勘定吟味役根立助七郎以下、幕府の役人、長崎奉行の役人、従者、商人、水夫らを含めて日本人が51人。加えて船の操縦にあたるウィリアム・リチャードソン船長以下のイギリス人ら16人。開国後「万国交易は富強の源」と説くアメリカ公使ハリスの影響もあり、幕府が貿易視察の目的で派遣した、寛永の鎖国以来初の「出貿易」船であった。

幕府派遣の船であったが、有力藩が自藩の人物を従者として乗り込ませた。その一人が長州藩の高杉晋作(1839〜1867)である。高杉は「清国の形勢実情と外国人を御する所以を探索せよ」との藩命をうけ、幕府の御小人目付犬塚ハ三郎の従者として一行に参加し、上海に約2ヵ月間滞在している。

その間の記録が『遊清五録』だ。「航海日録」「上海淹留日録」「外情探索録」「内情探索録」「崎陽雑録」の五つからなる(田中彰「遊清五録」『日本近代思想体系1開国』)。

「航海日録」(含「続航海日録」)は、長崎・上海間の船中記録で、詳細な航海実測記録も含む。「上海淹留日録」は上海滞在中の見聞録、「外情探索録」は上海総論や現地での中国人との筆談記録、「内情探索録」は幕府の千歳丸派遣の内情や上海道台(地方長官)との応接記録、長崎商人と幕府役人の実情などを記す。「崎陽雑録」(「長崎淹留雑録」)は出発前の長崎での動静を記す。

図1の個所は「航海日録」の最後の部分で、5月6日に上海港に到着した時の様子を記している。右頁の2行目から4行目にかけて、「午前漸く上海港に到る。ここは支那第一の繁津港なり。欧羅波諸邦の商船軍艦数千艘碇泊す。」「檣花(帆柱)林森として津口を埋めんと欲す。陸上は則ち諸邦の商館粉壁千尺殆ど城閣の如し」と、停泊する外国の商船・軍艦の多さ、外国商館が建ち並ぶ租界の賑わいに驚嘆している。

図1 高杉晋作『遊清五録』文久2年(1862)大久保利泰氏蔵
図1 高杉晋作『遊清五録』文久2年(1862)大久保利泰氏蔵

しかし、左頁上の欄外を見ると、「支那人の外国人の役する所と為るは、憐れむべし、我邦遂に此の如からざるを得ず、務めて是を防がんことを祈る」。これは滞在中に上海の実情を目の当たりにした後に、書き加えたものであろう。千歳丸の一行が上海に滞在した時期は、太平天国軍が上海に迫っていた時期である。太平天国軍の撃退に、清朝は英仏の軍隊を頼みにし、租界の外国人が繁栄する一方で、「使役」される清国人は貧困にあえいでいた。

高杉は中国人知識人と盛んに筆談をしている。「上海中の賞罰の権は尽く英仏の夷に帰すると。信なりや否や」「城外の地は尽く英仏の管する所に係るか」など、統治の主権に関わる質問をしている。高杉は列強に侵略された清国の実態を知り、日本は強固な軍事力を持つ独立国家にならねばと危機感を強めた。幕末、上海を訪れた日本人にとって、そこは世界をかいま見る窓であった。

帰国4カ月後の旧暦11月半ば、高杉は金沢八景での外国公使暗殺をもくろみ、神奈川宿の旅館に赴く。そこで対岸の横浜を眺め、「蛮檣林立、人をして慨然刺客の想ならしむ」と、外国船の帆柱が立ち並ぶ様に憤り、攘夷の思いを熱くした詩をよんだ。この1カ月後、江戸御殿山の英国公使館を焼き打ちすることになる。

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