横浜開港資料館

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「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

表紙画像

企画展
「上海と横浜 波濤をこえて」展示資料から

横浜商人の夢と涙−安部幸兵衛

上海に暮らす日本人が増えてくるのは、1895年の日清戦争以後のことである。まずは海運・金融・貿易などの大企業の支店が進出し、中小の商店を営む人びとがそれに続いた。横浜からも貿易商などが上海に渡り、事業を展開した。その一つが安部幸兵衛商店である。

図2 安部洋行上海支店 1917年頃 山本美月子氏蔵
図2 安部洋行上海支店 1917年頃 山本美月子氏蔵

安部幸兵衛(あべこうべい 1847〜1919)は横浜古参の貿易商だ。1859年、奉公していた江戸の海産物問屋榎並屋が横浜に支店を出すことになり、開港まぢかの横浜にやってきた。13歳の時である。1874四年、同じ榎並屋出身の増田嘉兵衛と共同で店を開いた後、84年に独立して南仲通りに増田屋安部幸兵衛商店を創業。やがて横浜屈指の砂糖輸入商に成長し、日本製糖、横浜精糖、帝国製粉などの会社も設立する。台湾の製糖事業にも着目し、日清・日露戦争後、中国各地に支店を設け、手広く砂糖・穀類・肥料などの取引を行った。

安部幸兵衛商店は、1905年に台湾支店、1911年に上海支店(安部洋行)を開設、その翌年には漢口、天津、青島にも支店を開いた。上海支店は福州路にあり、また共同租界内の支店長宅はテニスコートを持つ洋館であった。だが、第一次世界大戦の戦後恐慌、茂木銀行の破たんなどが影響し、経営が悪化。1920年に上海から撤退、事業を整理し、安部幸兵衛株式会社に改組された。この間1919年の創業者安部幸兵衛の死去も大きな痛手となった。

図3 上海での安部洋行花見会 山本美月子氏蔵 1917年頃
図3 上海での安部洋行花見会 山本美月子氏蔵 1917年頃

今回展示に資料をご出陳いただいた山本美月子(やまもとみつこ)氏は安部幸兵衛のひ孫にあたる。美月子氏の祖父安部政次郎は幸兵衛の娘と結婚して安部家に入り、おもに中国関係の仕事を担当し、上海支店長をつとめた。政次郎の長男で美月子氏の父、政寿は上海生まれ。山本家には今も上海から持ち帰ったイギリス製の家具が伝わる。

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