横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

表紙画像

企画展
「上海と横浜 波濤をこえて」展示資料から

上海経由の中国人洋裁職人

開港以後多くの中国人が上海から横浜にやってきた。その代表的な職業が、テーラー(紳士服仕立)とドレスメーカー(婦人服仕立)だ。

日本にやってきた中国人テーラーは、ほとんどが寧波出身の人びとだ。寧波は上海から陸路で四百キロほど離れた港湾都市である。寧波人の洋服仕立業者を「紅」という。伝統的な中国服仕立業者の「本」に対して、紅毛人=西洋人の服を作る集団なので、「紅」と呼ばれた。

寧波は浙江省の繁華な都市で服飾業も盛んだった。アヘン戦争以後、上海とともに対外開港されて租界が設けられ、外国人が住み始めた。そこで洋服仕立業、「紅」が生まれ、技術の高さから上海で活躍した。

紅の創始者は寧波県出身の張尚義という。張一族の足跡は日本におよび、現在も横浜で洋服仕立業を営んでいる。山下町七三番地のトムサン商会、中国名「公興昌」だ。

図4 トムサン商会で作業中の張肇揚氏 2013年3月
図4 トムサン商会で作業中の張肇揚氏 2013年3月

明治から昭和戦前期にかけて、横浜および東京で張一族が関わった洋服仕立店には、同義昌(張有舜、創業1901年)、永興昌(張有保、創業1905年、有楽町)、公興昌(張有福、創業1910年)、東昌号(張方標、創業1912年)、興昌号(張広福)、永興隆(張有憲)、同義和(張師月)などがあった。

公興昌(トムサン)の最初の店舗は山下町16番地で、おそらくその場所にあった復興昌の店を引き継いだと思われる。その後148番地の時期もあるが、関東大震災後、1927年には現在地の73番地に所在している。トムサンの事業は張有福から張有憲の息子張方広へ引き継がれた。現在は方広の息子張肇揚氏が営み、張尚義に始まる「紅」の伝統と技術を伝えている。

婦人服、ドレスメーカーについては、横浜最初のドレスメーカーは上海からやってきたミセス・ピアソンといわれるが、中国人も活躍する。

上海で最初の中国人ドレスメーカーは、上海県城西門の「曹慶蘭」である。曹慶蘭はキリスト教徒で、徐家キリスト教会の女性信者から洋裁技術を学んだという。この店で修業をつんだ、蔡芳洲が来日して開いた店が横浜の雲記である。明治末の最盛期には徒弟・職人・店員あわせて百名近くを擁し、皇族・華族も顧客に抱えた。

図5 雲記と蔡芳洲『帝国現代縦横史』1918年より 当館蔵
図5 雲記と蔡芳洲『帝国現代縦横史』1918年より 当館蔵

蔡芳洲の故郷は上海バンドの対岸に広がる浦東の農村だ。日本の中国人ドレスメーカーは、浦東の南と川沙の出身者が多い。貧しい農村を後に上海で技術を磨き、横浜に渡り成功をおさめた。それは汗と涙でつかんだ夢だった。

本稿作成にあたり、大久保利泰・孫明峰・張師捷・張師振・張肇揚・山本美月子の各氏のご教示をえました。謝意を表します。

(伊藤泉美)

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