横浜開港資料館

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「開港のひろば」第120号
2013(平成25)年4月24日発行

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資料よもやま話
幕末・維新期の駐屯軍とスポーツ

イギリス人居留民の回想

当時のこのようなようすを居留民のひとり、イギリス人ジャーナリストのブラックは次のように回想記(J・R・ブラック著、ねず・まさし、小池晴子訳『ヤング・ジャパン』第2巻、平凡社、1970年)に書き残している。

図2 晩年のブラック 『廿一大先覚記者伝』1930年より
図2 晩年のブラック 『廿一大先覚記者伝』1930年より

競馬、競漕、ヨットレース、運動競技などみな、順々に行なわれ、このようにして居留地としては、横浜は、その当時、まことに異常なほど、めぐまれていたと見てよかろう。…そこには、若い血と、エネルギーと、これらを最も有効に使う金が豊富に回転していた。

その一方で、居留地防衛だけでなくスポーツまで駐屯軍頼りの情況を次のようにも見ていた。

しばらくの間、当地のスポーツはなんであれ、軍隊によって設立されたものだった。居留地の紳士達も、仲間に加わるように招かれていたが、それらは「駐屯兵」のスポーツとされていた。

スポーツが盛んな状況は自分たち居留地社会が作り出したものでないことを残念に思っていたようだ。とは言え、駐屯軍来駐当初の居留民を取り巻く情況は厳しかった。1864年2月に横浜鎖港談判使節がヨーロッパに派遣されたり、9月に英・米・仏・蘭四カ国連合艦隊が前年の外国船砲撃への報復として長州藩を攻撃(下関戦争)したり、11月にはイギリス士官2名が攘夷派浪士によって殺害(鎌倉事件)されたりと、相変わらず不穏な情勢がつづき、居留外国人の多くを占める貿易商人たちは商取引にも生活にも不安をおぼえる日々を送っていた。

しかし駐屯軍が山手に兵舎を構え、イギリス外交代表が中心となって軍事力を背景とした外交が展開されるようになると、居留地社会の不安も少しずつであるが減り、レース・クラブのような組織を運営する余裕が生まれるようになったのだろう。

やがて1866年に「居留地の紳士達」は横浜レース・クラブを設立する。競馬は、ヨーロッパ社会ではたんなる娯楽ではなく、重要な社交の場であり、紳士淑女が着飾って競馬を楽しむ光景は、現在でもヨーロッパで見られる。

図3 根岸の競馬会 1907年春 ランバート氏旧蔵写真帳より 当館蔵
図3 根岸の競馬会 1907年春 ランバート氏旧蔵写真帳より 当館蔵

横浜レース・クラブは日本初の近代競馬場として幕府が横浜に建設した根岸競馬場の使用権を獲得し、その歴史は今日の日本競馬会に引き継がれている。

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