横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第118号
2012(平成24)年10月24日発行

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資料よもやま話
大正期における鶴見の水事情

「水汲夫」の雇用とその問題

八方ふさがりのなかで、生麦住宅地の人びとは、組合で独自に「水汲人」を雇用することとした。すなわち、飲料水需要者から1荷(2桶、約60リットル)につき金2銭の「水代」を徴集し、「水汲人」には、月手当(これまでの4円50銭を増加して金6円)を支給することで、急場を凌ぐことにしたのである。なお京浜電鉄からも一定の補助金を受けて、その財源に充てたようである。

しかしこの方式もやがて運営困難に陥る。第一次大戦期の諸物価高騰のため、大正7年末になると賃金の低さから「水汲人夫として応する者なく」、やむなく「水汲人」の賃上げが必要となった。そこで組合では、会社からの補助金を増額(12円を15円に)してもらうとともに、居住者からの水料も2倍に値上げすることとなった。

高まる財政負担は、組合員の間で摩擦を生んでいった。組合員の中からは、収入に応じて組合費に等級を設けるべきだとする意見や、井戸を使用している家からは、「水代」の一律値上げに反対する意見も出された。

翌大正8年7月に入ると、再度水汲夫から月額手当3割増(18円50銭から22円50銭へ)の要求が出された。組合側ではやむなく、会社からの補助金15円を20円に増額して貰うとともに、水料もさらに値上げして、窮状を凌いだ。

居住組合では、通常の会計とは別に「水会計」を組んでいたが、大正9年・10年の決算を見ると、収入の3分の2を京浜電鉄からの補助金に依存する一方、水料は伸び悩みの傾向にあった。また支出の九割が水屋、水運搬人への支払いに充てられている。

公営水道の敷設に向けて

生見尾村は、大正10年人口15,000人に達し、町制を施行して鶴見町となった。しかし生麦住宅地の水問題は先のような彌縫策(びほうさく)に追われる一方であった。そうしたなか、居住組合の一人、曽我正雄はより抜本的な対策を目指すようになる。

写真2 曽我正雄(『鶴見町誌』より)
写真2 曽我正雄(『鶴見町誌』より)

曽我は明治14年鳥取の生まれで、日本鉄道株式会社、汽車製造会社の技師、大阪市技師、小田原電鉄箱根軌道会社等を経て、大正3年6月京浜電鉄技師長として入社。青木正太郎社長の右腕となり、昭和5年の退社まで同社の重役をつとめた(『鶴見興隆誌』)。

彼は町会議員に当選し、公設水道敷設に向けて町の世論喚起に乗り出す。大正12年には鶴見町と潮田町(うしおだまち)(旧町田村)とが中心となって組合水道を敷設する計画も検討されることとなった。これが伏線となって、大正14年には両町が合併、人口5万人の鶴見町が誕生した。この間彼は、水道委員として主導的な役割を果たした。

しかし財源や水源の問題などから町営水道は実現しなかった。曽我らは、横浜市から早急な給水を受ける道を選ぶこととなる。すなわち横浜市との合併である。

町内では、横浜市への編入か、川崎市との合併か、あるいは合併せずに鶴見町単独の道を歩むのかで議論が百出したが、早期給水を望む移住者や進出企業の声を受けて、昭和2年4月鶴見町は、横浜市と合併することとなった。その半年後の9月、待望の近代水道が鶴見地域に通水されたのである【写真3】。

写真3 鶴見区通水記念絵葉書 昭和2年9月
写真3 鶴見区通水記念絵葉書 昭和2年9月

なお、本稿で使用した「京浜電鉄生麦住宅地居住者組合関係書類綴」は、「池谷健治家文書」として、近く閲覧室で公開する予定である。

(松本洋幸)

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