横浜開港資料館

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「開港のひろば」第118号
2012(平成24)年10月24日発行

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資料よもやま話
大正期における鶴見の水事情

京浜電鉄生麦住宅地居住者組合

発足当時の生麦住宅地の様子を伝える居住者組合の内部資料が残されている【写真1】。本資料は、生麦の郷土史家・故池谷健治(いけたにけんじ)氏の旧蔵資料で、同氏は戦後、組合の幹部をつとめていたようである。

写真1 京浜電鉄生麦住宅地居住者組合関係書類綴
写真1 京浜電鉄生麦住宅地居住者組合関係書類綴

同組合は、大正5年3月に結成されたもので、町惣代・副惣代・衛生委員・相談員等の役員が置かれた。本資料は、主に大正6年から10年にかけて、総代から組合員へ回覧された通知類(集会通知、決議事項の報告、村からの通達など)35通を合綴(がってつ)したものである。

正確な組合員数は不明だが、回覧印の数から判断すると、大正8年以降には50名以上が加盟していたと推測される。主な活動としては、町内の懇親会開催、近隣の杉山神社や消防組への寄付などがあった。なかでも、大正6年以降、居住者たちの間で飲料水問題が深刻化していく様子がよく分かる。以下、本資料にもとづいて、その経過を見ていくことにしよう。

飲料水問題の深刻化

生麦住宅地区内には約20の井戸があった。しかし、これらは飲料には不適で、幼児等が胃腸の病に侵されることもしばしばであったという。そこで京浜電鉄では、大正5年から周辺の丘陵地の湧き水をくみ出して、それを住宅地の家々に配る「役夫」を派遣してきた。しかしこの制度は、大正6年2月に廃止されることとなった。

そこで居住者たちは資金を拠出して、隣町の新子安町の某家に新設された横浜市の給水栓から水を汲み取って住宅地に配るという次善措置を講じてきた。しかしこの便宜的措置も暫くして差し止めとなったため、深刻な事態に陥った。

居住者たちが期待したのは、横浜市の水道管を延長して給水を受けることであった。横浜市では、大正3年に市外給水規程を設けて、隣接する町村内の工場等に対して市外給水を開始していた。京浜電鉄でも、生麦住宅地への市外給水を横浜市に申し入れたが、市側は鶴見地域への市外給水には慎重で、実現には至らなかった。

当時、生見尾村でも、公営水道の検討はなされていた。東隣の町田村に浅野造船所など巨大工場が進出し、町田村・生見尾村では急激な人口増加が始まりつつあったからである。両村では、大正5年から6年にかけて、独自の水道敷設や、横浜市からの市外給水、あるいは浅野総一郎らによる民営水道計画に期待を寄せたが、資金・水源の問題、横浜市側の慎重な姿勢等で、実現には至らなかった(浅野らの進出企業は、昭和2(1927)年に橘樹(たちばな)水道株式会社を発足させ、昭和4年より鶴見区安善町(あんぜんちょう)・末広町の工場を中心に給水を行った)。

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