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「開港のひろば」第118号
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資料よもやま話
大正期における鶴見の水事情
私たちの生活を支える基本的なインフラストラクチャーである水道。日本における最初の近代水道は明治20(1887)年横浜に敷設されたが、普及率が50パーセントを超えるのは1960年のことで、それ以前は井戸水や河川水・湧水などの利用が大半であった。
戦前の水道に関する基本法である水道条例(明治23年に公布)では、水道は市町村が公設することを原則としていた。しかし、巨額の工事費を必要とするため、財政規模の弱い町村では、公設水道の敷設は思うように進まなかった。
ここでは、水道が敷設される前の大正期における鶴見地域の水事情について、新資料を交えてその一端を紹介することにしたい。
京浜間の新興住宅地・生麦
現在の鶴見区に相当する地域が横浜市に編入されたのは昭和2(1927)年4月のこと。大正時代初め頃には、橘樹郡(たちばなぐん)生見尾(うみお)村・町田村・旭村という3つの村に分かれていた【地図1】。
橘樹郡生見尾村生麦は、大正初期には交通至便な住宅地として知られていた。この地域を通過する京浜電気鉄道(現在、京浜急行)は、関東の電鉄としては初めての住宅地開発を手掛けるべく、1坪5円の割合で約14,000坪の土地を買入れ、大正3(1914)年5月から1区画約100坪の割合で分譲を開始した。京浜電鉄と旧東海道に挟まれた、現在の生麦1丁目付近である【地図2】(黒線で囲まれた部分)。
移住者の評価は極めて良好で、「此の地に移住したる人々は皆地勢風土の良好を喜び居住地選択宜しきを得たる事を自負せるの有様」(大正4年度下期営業報告書)であったという。売れ行きも好調で、4年後には「本期中売地は全部売却を了し、貸家敷地も其の一部を売却し僅に六百参拾八坪を残すのみ」という状況であった(大正7年度下期営業報告書)。