HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第118号
「開港のひろば」第118号
|
企画展
資料でたどる起業家の足跡
“場”と“人”を引き継ぐ
愛らしいマスコット人形“ペコちゃん”で知られる菓子メーカーの不二家は、現在では「銀座・不二家」の看板を掲げているが、横浜元町が発祥である。明治43(1910)年11月、元町2丁目86番地に藤井林右衛門(ふじいりんえもん)が「不二家洋菓子舗」を創業し、3丁目の裏通りに菓子製造場を設けたとされる。翌年店舗は筋向かいの89番地に転じた。この店舗の前身は、現在も元町で経営するパン屋である「宇千喜麺麭製造所(うちきぱんせいぞうしょ)」(現ウチキパン)の分店で、パンを焼くかまどなどの設備をそのまま継承したのかもしれない。その後、不二家洋菓子舗は、藤井林右衛門の洋菓子視察のための渡米をへて、大正3(1914)年拡張した店内に、銀座資生堂パーラーなどでも導入されていたソーダ水設備を取り入れ、喫茶店「ソーダ・ファウンテン」を開いた。以後、第一次大戦の好況を得て事業を拡張し、関東大震災前、大正11年に伊勢佐木町、そして大正12年8月に銀座に店舗を進出させこととなる。
米国留学を経験した佐伯永輔(さえきえいすけ)は、大正9(1920)年、野毛都橋際に写真材料店「都商会」を開業した。この「都商会」に撮影カメラを借りに来た相原隆昌との出会いが、佐伯が映画業界に入るきっかけとなり、大正12年の横浜シネマ商会設立に結びついたと、ヨコシネ・ディー・アイ・エーの社史『映像文化の担い手として』(1995年刊)は記している。相原は、横浜毎朝新聞社の記者として、山野芋作(のちの長谷川伸)の下で働き、その後中央新聞横浜支局に転じて花柳界・演芸関係記事の筆を執った。その後、姿見町にしる粉店を開いたが失敗、大正7年にオデヲン座主平尾榮太郎に見いだされ、同座の仕切り場員に就いている(『横浜演芸かゝみ』1919年刊)。
オデヲン座と横浜シネマ商会との関係は深い。横浜シネマは戦前期アニメーションとドキュメンタリー作品で鳴らしたが、アニメの制作にたずさわったのが、震災前にオデヲン座の絵看板を描く画家であった村田安司であった。村田の「猿蟹合戦」「蛸の骨」(いずれも昭和二年)をはじめとする作品は、戦前期日本アニメとしての評価が高く、当時のオデヲン座で上映されている。また、横浜シネマのドキュメンタリー大作、「海の生命線」(昭和8年)・「北進日本」(昭和9年)・「南十字星は招く」(昭和13年)の三部作も横浜ではオデヲン座で公開されている。
(平野正裕)