横浜開港資料館

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「開港のひろば」第118号
2012(平成24)年10月24日発行

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企画展
資料でたどる起業家の足跡

外国製品の国産化

現在の千葉県に生まれた西川虎吉(にしかわとらきち)は、もとは三味線職人で、横浜で西洋楽器製造にのりだした人物である。元町で創業したが、楽器製造者としての本格的展開は、明治20(1887)年日ノ出町に工場を転じたのちといえる。

西川は、明治政府が推進した小学校を中心とする「唱歌教育」に対して、国産のリードオルガンを提供した製造家の元祖である。しかしながら若干の留保も必要である。世界のリードオルガンを網羅的に紹介した、ロバート・F・ゲイラーマン編『インターナショナル・リードオルガン・アトラス 第二版』(1998年刊)は、西川を日本最高品質のオルガンと紹介しつつも、ハルモラ社ないしはソプラニ社のリードを用いた、と説明しているからである。

西洋のオルガン製造では、金属製の発音部品のリードを専門メーカー品にたよることが珍しくなかった。(これはピアノについても同様で、鍵盤の動きを打弦ハンマーに伝えるアクションにも専門メーカーが存在した。)西川オルガンも日本人の手で作られたものであるものの、国産品として純血種とはいえなかった。西川とライバル関係の静岡県浜松の山葉寅楠(やまはとらくす)、日本楽器製造株式会社(現ヤマハ)が国産部品をもって市場に製品を問うたのに比較すると、意識せざるをえない事柄ではある。しかし、浜松に比して、横浜ならではの部品供給の好条件が、西川オルガンの内実を規定したといえよう。

オルガンに比較すると、西川・山葉ともにピアノの評価は定まらないのであるが、大正前期のカタログ『西川ピアノ THE ART OF PIANO BUILDING』をみると、黒塗りの通常のアップライト、グランドとともに、「美術型」とくくられたピアノ群が紹介されている。それは住空間にマッチした「ゴシック形」「コロニアル形」「日本古代形」「エムパイア形」「コロニアル形(グランド)」の五種の特注品であった。「日本古代形」は日本間にあったアップライトで、正面に欄間の図案にありがちな「荒磯に松」が描かれているように見える。西川は、国内でのピアノ需要の拡大を、西洋間の普及とともにみこんでいたのであろう。

『西川ピアノThe Art of Piano Building』に掲載された、
「コロニアル形」(左)と「日本古代形」(右) 大正前期

宇都宮絹子氏所蔵
『西川ピアノThe Art of Piano Building』に掲載された、「コロニアル形」(左)と「日本古代形」(右)大正前期 宇都宮絹子氏所蔵

大正8(1919)年に二代目西川安蔵を、同9年に創業者虎吉を失った西川楽器は、10年に日本楽器製造に吸収された。それは、楽器メーカーとしての“大”が“小”を併合したと考えるのは正しい評価ではない。楽器からはじまり玩具・家具・軍需プロペラなどの生産にまで手を広げた総合的木工メーカーが、横浜の一楽器メーカーをのみ込んだ、という図式なのであった。

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