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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第93号
2006(平成18)年8月2日発行

表紙画像
企画展
知られざる横浜の歴史と文芸−石井光太郎とその文庫−
展示余話
写真と浮世絵の対話−洲干弁天社を写す・描く−
資料よもやま話
都筑研究会と村田鷹輔(たかすけ)について

小島牧治の弔辞
都筑研究会
小泉又次郎の書簡
新収資料コーナー(1)
開港直後の横浜の港と町の測量図
資料館だより

企画展
石井光太郎の著作と文庫
−石井光太郎文庫の公開にあたって−

石井光太郎の著作

  石井光太郎は数多くの著作を残した。その数、雑誌・新聞に掲載されたもの約380点、著書・監修等を手がけた書籍約130冊におよぶ。彼の著作の概要を見てみたい。

  石井の手がけた著作を分類してみると、(1)人物研究、(2)和歌、(3)俳諧、(4)区史、(5)書誌研究の5つに分類できる。


(1)人物研究
  石井は、郷土の発展に尽すと共に、文化の摂取者となり地方文化に貢献するところが多大であった人物に興味を持ち、弘明寺村(現横浜市南区弘明寺町)の出身である儒学者根本武夷(ねもとぶい)や川崎宿本陣当主から代官に抜擢された田中丘隅(たなかきゅうぐ)について研究を開始した。


『根本武夷に就いて』
石井光太郎著 武渓文庫 1942年 石井光太郎文庫−図書−289−ネ1−1
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根本武夷に就いて

  昭和13年(1938年)、石井は「根本武夷先生雑考」(『歴史と郷土』第7巻1輯 神奈川県歴史研究会)を、同15年(1940年)には「根本武夷著述考」(『神奈川文化』6月号(第5号) 神奈川文化研究会)を著し、同17年(1942年)3月には、「根本武夷について」を『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第10輯にまとめた。石井が生まれた横浜市堀内(現南区堀ノ内)は、かつて弘明寺・永田を含め、武蔵南部の渓谷の意味で「武渓(ぶけい)」と呼ばれた地であった。石井は、武渓の地にある自らの文庫を「武渓文庫」と称したが、『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』掲載の論文については、同年10月、武渓文庫から自費出版している(『根本武夷に就いて』)。

  田中丘隅(休愚・休愚右衛門)については、「田中休愚伝の研究(1)」(『史蹟名勝天然紀念物調査報告書』第17輯 神奈川県 1950年)、「田中休愚右衛門の遺跡と遺物(1)・(2)」(『川崎市文化財調査集録』第3・4集 川崎市教育委員会 1967年・1969年)などを著した。他に片倉鶴陵・山梨稲川等についても記している。


(2)和歌・長歌
  和歌・長歌については、江戸浅草に生まれ、神奈川宿三宝寺住職となった歌人大熊弁玉(べんぎょく)についての研究がその中心であった。

  石井の「歌僧弁玉とその周辺」(『大熊弁玉』 横浜の文化No.11 横浜市教育委員会刊 1983年)によると、石井と弁玉の出会いは、昭和7年(1932年)刊の『横浜市史稿』教育編の記述であったという。戦後石井は、『久木』に「弁玉の歌について」・「未刊弁玉歌集(1)〜(5)」・「弁玉詠草(1)〜(6)」(久木発行所 1969年〜1970年)を連載している。


弁玉の短冊
氷売  ひらけゆく世のたまものと商人の市にも室(むろ)の氷うるらむ  弁玉
石井光太郎文庫
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弁玉の短冊

  また弁玉に関わった人々の事績についても、弁玉の神奈川来住以前、神奈川歌壇に影響力をもった歌人原久胤(ひさたね)について、「歌人原久胤の墓を訪ねて―中郡大根村下大槻所在―」(『郷土神奈川』第1巻8号 神奈川県郷土研究会 1942年)を、明治初期の横浜を代表する漢詩人平塚梅花については、「平塚梅花のことども」(『神奈川文化』4月号 1940年 神奈川県文化研究会)を記している。


(3)俳諧
  俳諧についての著述は数多い。戦前に、「「程ヶ谷の枝道曲れ梅の花」の句碑に就いて―保土ヶ谷俳壇覚書」(『郷土神奈川』第2巻8号 1943年)を、戦後は『こよろぎ』(鴫立庵東往吟社)に「鴫立雑記(1)・(2)」(第11巻10月号・第12巻3月号 1953・1954年)などを、青芝俳句会の『青芝』には「春鴻のことども―春秋庵白雄の八大弟子―」(第6号 1954年)などを発表した。

  画家であり俳人でもある飯田九一(1892年〜1970年)と共に『神奈川県古俳人展望』(飯田九一・石井光太郎註 金沢文庫刊 1953年)なども残している。

  他に『露柱庵春鴻句集』(石井光太郎編刊 1959年)、『筆蹟と俳書―神奈川県古俳人展目録―』(石井光太郎編 神奈川県立図書館刊 1961年)、『横浜の俳人たち  横浜俳壇史一  江戸期』(石井光太郎著 横浜市教育委員会刊 横浜の文化No.2 1972年)、晩年には『近世俳人の手紙  白雄・葛三・星布・虎杖(ほうすい宛)』(石井光太郎編刊 1998年)などを記している。


『其唐松』 天
米珠・引蝶序  安永5年(1776年)序  引蝶は甲州の俳人。書名は、西行の「甲斐国巨摩の群の苗敷のその唐松の下ぞすゞしき」の和歌に因んでおり、苗敷を訪れた諸家の句を集めたもの。写真は、表紙と西行の歌碑が描かれた部分。本書は、今回の展示にあわせ、修復を行った。石井光太郎文庫
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『其唐松』 天


(4)区史
  区史については、郷土史・文芸についての力量を買われ、以下の八冊に関わった。『南区の歴史』(南区の歴史発刊実行委員会編 1976年)、『神奈川区誌』(神奈川区誌編さん刊行実行委員会編 1977年)、『鶴見区史』(鶴見区史編集委員会編 1982年)、『横浜・中区史』(中区制50周年記念事業実行委員会編 1985年)、『港北区史』(港北区郷土史編さん刊行委員会編 1986年)、『中区わが街―中区地区沿革外史』(中区役所編 1986年)、『戸塚区史』(戸塚区史刊行委員会編 1991年)、『保土ケ谷区史』(保土ケ谷区史編集部会編 1997年)。いずれも主に編集・監修を担当したが、『神奈川区誌』では、「黒船来る」・「文芸」の項を、『戸塚区史』では「文人の活躍」の項を執筆している。


(5)書誌研究
  石井の得意とした分野に書誌研究をあげることができる。

  『彙報金沢文庫』・『金沢文庫研究』に連載された「相模の木版本目録(1)〜(11)」(金沢文庫 1958年〜1966年)や、『神奈川県郷土資料集成  第1輯  地誌篇』(神奈川県図書館協会編 1957年)、『同  第2輯  開港篇』(同 1958年)、『同  第3輯  俳諧篇』(同 1959年)等では、いずれも解題を記している。また吉田橋蔵のペンネームで「稀版つれづれ草(1)〜(4)」(『郷土よこはま』第86・87号〜94号、横浜市図書館 1980年〜1982年)も残している。

  そして石井の書誌に関する博識が遺憾なく活かされたのが、『横浜の本と文化―横浜市中央図書館開館記念誌』(横浜市中央図書館 1994年)であった。「出版」編の序を始め、「横浜本発掘史I・ II」を執筆している。

  石井が関わった出版物を他にあげるとすれば、『横浜市学校沿革史』(横浜市教育委員会 1976年)、『横浜市教育史』上・下巻、資料編(同 1976年〜1981年)、『横浜港史』総論編(横浜市港湾局 1989年)、『横浜近代史総合年表』(松信太助編 石井光太郎・東海林静男監修 有隣堂 1989年)などをあげることができる。

市史編纂と石井光太郎

  石井は、昭和21年(1946年)2月、横浜市に勤務した。

  横浜市は、昭和22年(1947年)1月横浜市史料調査委員会規程を定め、文教部社会教育課に横浜市史料調査委員会を設置した。市は、昭和33年(1958年)の開港100年を迎える記念事業として市史の編纂を企画し、前段階として、昭和24年(1949年)9月、横浜歴史年表編纂委員会を設置し、横浜歴史年表の編纂を開始した。委員長に上条治、委員に斉藤昌三、中山沖右衛門、西村栄之助、飯田九一、軽部三郎、軽部亀松、添田坦等錚々たるメンバーを集め、石井は事務局員として編纂と巻頭の「横浜史概説」部分等の執筆を担当した。昭和26年(1951年)9月、『横浜歴史年表』は完成した。本書は、その編纂方針にも記されているように、横浜市の歴史を政治・経済・文化の3欄に分かち、さらに参考として日本史を収録している。偶数頁の下欄に飯田九一委員の選定による俳句が掲載されているなど、文化史に厚い体裁になっている。しかし、『横浜歴史年表』本編の刊行により、その任務を完了した横浜歴史年表編纂委員会は、索引の刊行を翌年の昭和28年(1953年)3月に予定し、昭和27年12月に解散が決まった。

  開国百年祭に沸いた昭和29年(1954年)の8月1日、横浜市は先に定めた横浜市史料調査委員会規程を廃止し、新たに横浜市史編集室規程を定め、横浜市史編集室を設置した。近代史研究の第一人者、石井孝横浜市立大学教授を常任編集委員とし、「貿易商工都市としての本市の発展を、主として経済史の面から跡づけること」などを基本方針とし、全5巻の刊行を予定し、編纂事業は開始された。結果として刊行は28年間にわたり、全34冊の刊行が完了したのは1982年であった。全国的に見ても市史編纂の手本といった評価がある一方で、基本方針どおり、政治史・経済史中心の編成になっているため、教育・文化・芸能・地理といった分野の記述に乏しく、内容の偏りを指摘する声もある。石井自身も編纂事務を担当したが、第2巻の巻末付表や索引編の作成に携わった以外、執筆はしていない。

石井文庫と横浜開港資料館

  石井光太郎文庫は、石井が公務の傍ら私財を投じて収集した資料である。文庫には、古文書約120点、和装本約1900冊、図書約1700冊、雑誌・新聞約4200点、書簡約100点、などが収蔵されている(概要については、西川武臣「石井光太郎文庫(仮称)について」(『横浜開港資料館紀要』第21号 2003年)も参照されたい)。これらの資料の一部は、石井の著作、例えば『露柱庵春鴻句集』・『大熊弁玉』・『横浜の本と文化―横浜市中央図書館開館記念誌』などのなかで紹介されたことはあっても、その大半は、未公開のものである。特に郷土史・文芸史の資料については、未公開のもの、知られざる資料が数多い。石井光太郎文庫の公開によって、我々は今まで見ることのなかった貴重な資料を手にすることが出来る。

  繰り返しになるが、当館は、『横浜市史稿』・『横浜市史』編纂の過程で収集した資料の公開と活用を目的とした施設である。『横浜市史稿』編纂過程で収集した資料が、編纂途中、一度は全て震災によって焼失したこと、戦災によって多くの資料を再度失ったことから、当館の収集資料は、量においても、その内容においても『横浜市史』編纂の過程で収集された資料が大半を占めている。そして、『横浜市史』で取り上げられなかった郷土史・文化史の資料については、結果として所蔵する資料も少ない傾向がある。このたび寄贈された一連の資料は、当館収集資料の欠を補うという点でも、大変有意義である。

  経済的な発展を追究する社会は、生活・文化の充実・豊かさを求める社会に変わりつつある。石井光太郎は、主に郷土と文芸を通じて、豊かさ、文化の充実を追究した。彼が残した文庫をもとに、当館も、新たな横浜の歴史像を打ち出していきたい。

  なお石井光太郎文庫は、展示終了後に公開いたします。石井光太郎の著作については、『石井光太郎著作目録』(相澤雅雄・横浜開港資料館編 横浜開港資料館刊)をご参照ください。また今年度末には『石井光太郎文庫目録  第1巻  和装本部』(仮称)を刊行する予定です。

  末筆ではありますが、本展示開催にあたっては、ご家族の石井タマ氏、石井全氏をはじめ、多くの方々のご協力を頂きました。記して謝意を表します。

(石崎康子)


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