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館報「開港のひろば」バックナンバー


バヴィエル商会

 商人出身のエドゥアール・バヴィエルも使節団に参加した1人だった。しばらくウォルシュ・ホール商会の客人として活動したのち、1865年(慶応元年)10月28日、バヴィエル商会を設立した。やがて生糸の輸出にかけては屈指の商社に成長する。

 データの得られる1867/68生糸年度(7月から翌年6月まで)から84/85年度までの商社別生糸輸出高を合計すると、トップがシーベル・ブレンワルト商会、2位がバヴィエル商会、3位がシーベル・ヴァーゼル商会となり、スイス系商社が上位3位を占めている。国籍別にはイギリスに次ぐ2位で、両者で過半を占めている。

 スイスでそんなに多量の生糸の需要があったわけではない。当時の外国商社は、今日ならボーダーレスと形容されるような、国籍を超えた存在だった。シーベル・ブレンワルト商会がアメリカ市場の開拓者として知られるのに対して、バヴィエル商会はフランスを輸出先としていた。馬具とスカーフで知られるパリの老舗エルメス社などが得意先だった。

 関東大震災で大打撃を受け、帰国したエドゥアール・バヴィエルの跡を継いだのは、フランス系のジョルジュ・オドワイエ商会であった。さらにそれをイタリア人ダンテ・デンティシが引き継いで戦後まで存続したが、その死後の昭和62年ついに姿を消した。


シーベル・ブレンワルト商会

 カスパル・ブレンワルトは公使館参事官の資格で使節団に参加していた。条約締結後一旦帰国し、日本品の見本市をチューリヒで開催する。翌年スイスの絹織物業者出身で、当時ロンドンにいたシーベルをパートナーとし、1865年(慶応元年)11月、横浜にシーベル&ブレンワルトを設立する旨の回状(サーキュラー)を発した。2人が横浜に到着するのは翌年4月である。

  生糸の輸出でバヴィエル商会とトップの座を争っていたことはすでに述べたが、明治31年からはスイスの時計オメガの輸入を始めた。社名はその後シーベル・ヴォルフ商会→シーベル・ヘグナー商会と変わり、現在は日本シイベルヘグナー株式会社が事業を継承している。

「開港のひろば」第90号
2005(平成17)年11月2日発行

表紙画像
企画展
「太平洋を越えて 横浜&バンクーバー」
企画展
「太平洋を越えて 横浜&バンクーバー」展出陳資料より

カナディアン・パシフィック鉄道とバンクーバー
関東大震災との遭遇
日系移民の足跡
2つのチャイナタウン
展示余話
ドン・ブラウンの墓、見つかる
資料よもやま話1
台町の歴史と神奈川二業組合
資料よもやま話2
横浜のスイス系商社

日本生まれの外国商社
日本=スイス条約の調印
ジェームズ・ファヴルブラント
シーベル・ブレンワルト商会
閲覧室から
新聞万華鏡(21)
『横浜貿易新聞』の取次所
資料館だより

 ファヴルブラント同様機械の輸入も手がけていた。明治五年に横浜で日本最初のガス灯が点るが、その資材をイギリスから輸入したのはこの商社である。幕末には武器の輸入も行っていた。売れ残りの大砲が倉庫の入口に据え付けられていたらしい。跡地から発見された大砲は、それが関東大震災の時土中に埋没したものと考えられている。現在は居留地時代の遺品として、横浜開港資料館脇の開港広場と神奈川県立歴史博物館の入口に据え付けられている。

  この商社の成功の秘密はどこにあったのだろうか。考えられるのは豊富な人材である。例えばジェームズ・ウォルターは、イギリスの絹織物業の町マクルスフィールドで修業した後、ロンドンと横浜で生糸貿易に従事し、弱冠21歳でこの商社に入社した。以後40年余にわたって業績拡大に貢献した。フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、ロシアの各国語に通じ、日本語はとくに堪能というスーパーマンだった。外国人商業会議所など居留地の公共団体の役員を務め、また災害や戦争の犠牲者に対する義援活動に熱心だったので、日本人からは「ワタリさん」と呼ばれて親しまれた。「生糸貿易の先導者」「外商中の徳望家」として、勲五等旭日賞を受賞、横浜外国人墓地に眠っている。

  日本人番頭にも、忠実かつ有能で、しかも趣味や教養に長けた人材が揃っていた。輸入品部主任西宮大助やその子で輸出生糸部主任を務めた吉田之助など。之助は勤続47年に及び、俳諧や美術を愛する趣味人でもあった。ウォルターの娘と結婚し、長子五郎も実弟田中鑑次郎もここで働いた。屑糸部主任加納勇次郎と養子恒吉、その長子勇吉も3代にわたって勤めた。

  また富田利兵衛は茶人として知られていた。『六二連俳優評判記』という劇評誌で健筆を揮い、横浜の芝居見巧者として知られた謎の人物富田砂燕は、外国商館の番頭にして江戸時代の通人といった風の人であったという。富田利兵衛その人か、あるいは縁者なのではないかと密かに推測している。

  藤本実也は労作『開港と生糸貿易』の中で、この商社が人材に恵まれたのは、「伝統的に館主が人格者で人情味温か」だったからではないかと述べている。


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上からシーベル&ブレンワルト、バヴィエル商会、ファヴルブラント 『日本絵入商人録』(佐々木茂市、1886)より。 横浜開港資料館蔵

(斎藤多喜夫)

[参考文献]平野光雄『明治前期東京時計産業の功労者たち』(同刊行会、1957年)/中西道子「スイス特派使節団の来浜と商館の創業」『横浜居留地の諸相』(横浜開港資料館、1989年)所収





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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