日系移民の足跡
横浜は諸外国の人々を受け入れる窓口であるとともに、多くの日本人移民を送り出した港でもあった。
カナダへの最初の日本人移民は、1877年にブリティッシュ・コロンビア州(以下BC州)のニューウエストミンスターに上陸した永野万蔵といわれるが、本格的な移民開始は1880年代中頃のことである。カナダに渡った日本人の多くは和歌山県と滋賀県の出身者で、おもにBC州で製材業、漁業、炭鉱、商業、農業などに従事した。
バンクーバーの日本人街は製材所に働く労働者のための下宿、食堂、理髪店などがパウエル・ストリートにできたことから始まり、1900年代初頭には街が形成されていた。1907年、バンクーバーの日本人は1,700人を超えていたが、この年、日本人移民が急増する。これが日本人排斥運動に拍車をかけ、9月7日、日本人街とチャイナタウンが白人労働者から襲撃をうけるバンクーバー暴動が起こった。翌1908年、カナダへの移民数を日本政府が自主的に年間400人に制限するというルミュー協約が結ばれた。これにより、家族以外の入国が厳しくなり、いわゆる写真花嫁や養子の形で新移民を呼び寄せた。その後人数制限は厳しくなり、新移民は減っていき、日本人社会は出稼ぎ型から定住型へと変質していく。第2次世界大戦期には、日系人は財産没収や立ち退きなどを強いられた。1988年、カナダ政府は戦争時の行為に謝罪し、リドレス(補償)が実現した。
図3 移民宿の福井忠兵衛作成のの横浜・バンクーバー間汽船発着表 1907年 横浜開港資料館蔵
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