2つのチャイナタウン
近年、バンクーバーは「ホンクーバー」とも称される。香港からの移民が非常に多いからだ。これはとくに1997年の中国への香港返還をにらんでバンクーバーへの移民が急増したことによる。現在、その波はおさまったが、バンクーバー市の2001年の中国系人口は約16万人、同年の市総人口約54万人のほぼ30%を占める。現在、横浜市の中国系の人口はおおよそ2万5千人、市総人口約358万人の0.7%弱である。
カナダのチャイナタウンの発祥は、1858年のゴールド・ラッシュにさかのぼる。サンフランシスコや中国本土から金鉱をめざして移民が押し寄せ、1860年代、BC州の金鉱や炭鉱に多くの中国人居住地が出現した。1880年代に入ると、CPR社の大陸横断鉄道の建設労働者として、沿線の各地に中国人が進出していった。
1886年に鉄道がバンクーバーまで通じると、森を切り開いて街を造成するため多くの労働力が必要とされた。州政府は自ら開拓することを条件に、中国人に10年間無償で現メイン・ストリートの一60エーカーの土地を貸与した。これがチャイナタウンに発展する。
その後1890年代、1900年代とチャイナタウンは拡大していくが、カナダの中国人移民の歴史は平坦なものではなかった。白人労働者から雇用を奪う存在とみなされ、激しい差別を受けた。1885年から人頭税が課せられてカナダ入国が制限され、1923年には中国人労働者とその家族の入国を禁止した中国人排斥法が制定された。そのため、故郷の妻はとり残され「生寡婦」(生きながらの寡婦)と呼ばれた。中国人排斥法は1947年に廃止された。
1995年、横浜とバンクーバーの二つのチャイナタウンは姉妹提携をむすんだ。どちらのチャイナタウンにも広東省出身者が多い。CPR社の太平洋航路の一方の終点は香港である。広東を出て香港から船に乗り、途中の横浜で降りた人、終点のバンクーバーまで行った人。横浜とバンクーバーは中国系の人々のネットワークによっても結ばれている。
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