実は使節団の来日以前から、横浜にはスイス人が住んでいた。公認生糸検査人の資格をもち、横浜きっての生糸通と目されていたジャキモは、ロンドンで生まれた二人の子どもを連れて、イギリス人として来日していた。また、レーデルマンとペルゴはフランス人として来日していた。ペルゴはスイスの時計メーカー、ジラール・ペルゴの総代理店を務めているので、時計輸入のパイオニアといってよい。かれらが使節団を陰で支えていたのであろう。
1864年(元治元年)2月6日、ようやく日本=スイス条約が調印された。随員の1人、イワン・カイザーが建築土木事務所を開いたのは、なんとその翌日のことであった。場所はジャキモの所有する八四番、おそらくその敷地か建物の一部を借りたのであろう。
スイスの特派使節団 ベルンにて。中央椅子に座っているのが団長のエーメ・アンベール。左端イワン・カイザー、その右カスパル・ブレンワルト。
右端エドゥアール・バヴィエル、その左ジェームス・ファヴルブラント。

ジェームズ・ファヴルブラント
ジェームズ・ファヴルブラントもそのまま定住した随員の一人だった。時計の産地として知られるロックルの出身、工業専門学校を卒業し、射撃隊下士官の資格を持っていた。幼い頃から東洋に憧れ、使節団に志願したのは22歳の時であった。
正確な開業の日付は不明だが、1864年8月27日には英字紙に広告を出している。場所はやはりジャキモ所有の84番であった。1867年(慶応3年)175番(現NTT横浜ネットワーク・センター所在地)に移転、向かいには乙90番のシーベル・ヴァーゼル商会(現ファンケル・ビル、旧シイベルヘグナー・ビル所在地)、斜め向かいには甲90番のシーベル・ブレンワルト商会(現ロイヤルホール所在地)と三つのスイス系商社が軒を接することになる。
自らも射撃の名手だったファヴルブラントは、幕末には銃器を諸藩に売り込んだ。その関係で薩摩藩の大山巌や西郷隆盛、長岡藩の河井継之助との交遊が生まれたという。
しかし、ファヴルブラントといえば、なんといっても時計の輸入と普及の功績を挙げなければならない。長兄のエドゥアール・ファブル・ペレはスイス時計産業の指導者であるとともに、ファヴルブラントが輸入したイギリス製懐中時計の製造にも関わっていたらしい。義兄のシャルル・フェリシャン・ティソも時計工場の創立者だった。
時計の普及という点では、横浜名物の一つとなった町会所の時計塔など、各地の時計塔の時計を輸入したことの意味が大きい。その数16ヵ所に及んだという。また、銀座の竹内時計店の子息竹内治三郎や神田京屋時計店の水野太一を郷里ロックルの時計学校へ留学させた。
あまり知られていないのが機械の輸入である。ファヴルブラントはベルギーのリェージュ水道管会社の代理店を務めており、明治29年(1896)にはその製品を東京市に納入した。34年の横浜市水道第一回拡張工事に当たっても、ファヴルブラントが輸入した同社の鋳鉄管が使用されている。
事業では成功を収めたファヴルブラントだが、家庭生活では不幸が多かった。先妻の松野久子にも、再婚したその姪のくま子にも、5人の子どもたちにも先立たれたのである。大正12年8月7日、82歳で永眠、かれが愛した第2の故郷横浜が関東大震災で壊滅する25日前のことであった。家族とともに山手の外国人墓地に眠る。
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