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館報「開港のひろば」バックナンバー


資料よもやま話2
横浜のスイス系商社

日本生まれの外国商社

 桟橋の入口、シルク・センター前の角地に「英一番館跡」の碑がある。ここはかつて外国人居留地の1番地だったところで、香港に本拠をもつイギリス系巨大商社、ジャーディン・マセソン商会の社屋があった。開港直後、他にも多くの商社が香港や上海から横浜に進出したが、定着したものは意外に少ない。
むしろ居留地の主役となったのは、若い商人たちが日本で設立した商社だった。横浜開港後まっ先に開業したクニフラー商会は、当時ハンザ同盟に属していたハンブルクの商人クニフラーが長崎で設立したもので、横浜見物に出かけた福沢諭吉が出会った「キニッフル」(『福翁自伝』)とはこの人のことである。この商社の事業はイリス商会が継承して現在に至っている。

  横浜生まれの商社には、「アメ一」(地番ではなく国籍別商館番号で「アメリカ一番」の意)の通称で知られるウォルシュ・ホール商会や、イギリスの絹織物業者出身のコーンズがアスピノールと組んで設立したアスピノール・コーンズ商会(現コーンズ&カンパニー・リミテッド)などがある。そのなかにスイス系商社もあった。


日本=スイス条約の調印

 1863年(文久3年)春、アンベールを団長とするスイスの特派使節団が来日した。しかし、生麦事件の解決をめぐって危機が切迫していた当時、幕府はスイスとの条約交渉どころではなかった。この年の夏にはイギリスが鹿児島に遠征し、薩摩藩との間で薩英戦争が起きている。

  この間、スイスの使節団は10ヵ月にわたって待ちぼうけを食わされるのだが、そこはビジネス・チャンスを狙っての来日だけに抜け目なく、日本の民情や商況の観察を続けていた。その成果は帰国後アンベールによってまとめられ、『幕末日本図絵』という優れた記録となった。1863年10月には、幕府への贈り物として持参した品を中心に、精密機械や織物などの見本市を開催して注目を集めている。

「開港のひろば」第90号
2005(平成17)年11月2日発行

表紙画像
企画展
「太平洋を越えて 横浜&バンクーバー」
企画展
「太平洋を越えて 横浜&バンクーバー」展出陳資料より

カナディアン・パシフィック鉄道とバンクーバー
関東大震災との遭遇
日系移民の足跡
2つのチャイナタウン
展示余話
ドン・ブラウンの墓、見つかる
資料よもやま話1
台町の歴史と神奈川二業組合
資料よもやま話2
横浜のスイス系商社

日本=スイス条約の調印
ジェームズ・ファヴルブラント
バヴィエル商会
シーベル・ブレンワルト商会
閲覧室から
新聞万華鏡(21)
『横浜貿易新聞』の取次所
資料館だより

  実は使節団の来日以前から、横浜にはスイス人が住んでいた。公認生糸検査人の資格をもち、横浜きっての生糸通と目されていたジャキモは、ロンドンで生まれた二人の子どもを連れて、イギリス人として来日していた。また、レーデルマンとペルゴはフランス人として来日していた。ペルゴはスイスの時計メーカー、ジラール・ペルゴの総代理店を務めているので、時計輸入のパイオニアといってよい。かれらが使節団を陰で支えていたのであろう。

  1864年(元治元年)2月6日、ようやく日本=スイス条約が調印された。随員の1人、イワン・カイザーが建築土木事務所を開いたのは、なんとその翌日のことであった。場所はジャキモの所有する八四番、おそらくその敷地か建物の一部を借りたのであろう。


スイスの特派使節団 ベルンにて。中央椅子に座っているのが団長のエーメ・アンベール。左端イワン・カイザー、その右カスパル・ブレンワルト。 右端エドゥアール・バヴィエル、その左ジェームス・ファヴルブラント。


ジェームズ・ファヴルブラント

  ジェームズ・ファヴルブラントもそのまま定住した随員の一人だった。時計の産地として知られるロックルの出身、工業専門学校を卒業し、射撃隊下士官の資格を持っていた。幼い頃から東洋に憧れ、使節団に志願したのは22歳の時であった。

  正確な開業の日付は不明だが、1864年8月27日には英字紙に広告を出している。場所はやはりジャキモ所有の84番であった。1867年(慶応3年)175番(現NTT横浜ネットワーク・センター所在地)に移転、向かいには乙90番のシーベル・ヴァーゼル商会(現ファンケル・ビル、旧シイベルヘグナー・ビル所在地)、斜め向かいには甲90番のシーベル・ブレンワルト商会(現ロイヤルホール所在地)と三つのスイス系商社が軒を接することになる。

  自らも射撃の名手だったファヴルブラントは、幕末には銃器を諸藩に売り込んだ。その関係で薩摩藩の大山巌や西郷隆盛、長岡藩の河井継之助との交遊が生まれたという。

  しかし、ファヴルブラントといえば、なんといっても時計の輸入と普及の功績を挙げなければならない。長兄のエドゥアール・ファブル・ペレはスイス時計産業の指導者であるとともに、ファヴルブラントが輸入したイギリス製懐中時計の製造にも関わっていたらしい。義兄のシャルル・フェリシャン・ティソも時計工場の創立者だった。

  時計の普及という点では、横浜名物の一つとなった町会所の時計塔など、各地の時計塔の時計を輸入したことの意味が大きい。その数16ヵ所に及んだという。また、銀座の竹内時計店の子息竹内治三郎や神田京屋時計店の水野太一を郷里ロックルの時計学校へ留学させた。
あまり知られていないのが機械の輸入である。ファヴルブラントはベルギーのリェージュ水道管会社の代理店を務めており、明治29年(1896)にはその製品を東京市に納入した。34年の横浜市水道第一回拡張工事に当たっても、ファヴルブラントが輸入した同社の鋳鉄管が使用されている。

  事業では成功を収めたファヴルブラントだが、家庭生活では不幸が多かった。先妻の松野久子にも、再婚したその姪のくま子にも、5人の子どもたちにも先立たれたのである。大正12年8月7日、82歳で永眠、かれが愛した第2の故郷横浜が関東大震災で壊滅する25日前のことであった。家族とともに山手の外国人墓地に眠る。





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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