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館報「開港のひろば」バックナンバー


2 日本人が撮影した映画

 活動写真伝来当初、吉沢商店が試行錯誤のうえで公開した横浜港座は別として、正規のルートで日本にもたらされた映写機は外国人技師によって扱われた。映写技師は同時に撮影もてがけ、フィルムは本国に送られ、新たな写真として世界をかけめぐった。今日目にすることが出来る横浜の映像で最も旧いものは、明治31年(1898)4月エジソン社のジェームズ・ホワイト、フレッド・ブレシンデンが撮影した、「横浜の街角」「横浜の劇場街」「横浜レース(競馬)に行く」「レースの帰り」などであるが、このフィルムが日本で公開されたかどうかはわからない。

  日本で映画が初めて公開されてから間もなく、東京日本橋の小西写真店(のちのコニカ)はB&Wシネマトグラフ映写機兼撮影機を輸入し、店員の浅野四郎が日本人映画カメラマン第1号となった。浅野の指導を受けた柴田常吉は、リュミエール社に日本を写したフィルムを提供する一方、明治32年(1899)に「稲妻強盗」や9世市川団十郎・5世尾上菊五郎出演「紅葉狩」、のちの市村羽左衛門・尾上梅幸による「二人道成寺」の歌舞伎映画を撮影。翌33年中国大陸で勃発した義和団事変を撮影したカメラマンとして名を残した。

  「北清事変活動大写真」と題した喜楽座のチラシ(写真2)は、吉沢商店系「日本活動写真会」の広告で、柴田常吉が深谷駒吉とともに従軍撮影したものである。この記録映画は神田錦輝館で10月18日に封切られた。喜楽座での上映日は目下のところ不詳であるがチラシには「二五日まで日のべ」とある。この記録映画は、地方で引っ張りだこの人気映画となった。


写真2 喜楽座「北清事変活動大写真」
明治33年(1900)か 平尾榮美氏所蔵

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「開港のひろば」第89号
2005(平成17)年8月3日発行

表紙画像
企画展
ドン・ブラウンと戦後の日本
企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から
展示余話
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場
資料よもやま話1
大同学校校舎?いえ、幻のクラブ・ハウス
資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ

1  実写から記録映画へ
3  劇映画の公開
閲覧室から
新聞万華鏡(20)
明治初年の外国新聞
資料館だより

   柴田常吉とならぶ初期の映画カメラマンとして土屋常二がいる。土屋が撮影した大相撲映画をふくむ「東京万国活動大写真会」(会主杉浦半兵衛)の港座でのチラシ(写真3)によれば、エジソン社のフィルムとともに、同社の蝋管式録音機「ホノグラフ」によって、行事呼び出しの声や音楽を聴かせる新趣向を取り入れている。土屋はシカゴ万国博を当て込んで明治26年(1893)渡米し、日本茶館を建てて巨利を得た。のちヴァイタスコープを習得して、明治32年に帰国。港座での映画興行が行われている7月末から8月にかけて、土屋は名古屋御園座で初代中村雁治郎出演の歌舞伎映画「鳰におの浮巣」を撮影している。


写真3 港座「万国活動大写真」
明治33年(1900)7月 平尾榮美氏所蔵

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3 劇映画の公開

  喜楽座は明治後期の横浜屈指の劇場であるが、佐々木染之丞が座主をつとめた明治37年(1904)から数年間の活動写真への取り組みが、群馬県太田市立新田図書館所蔵の田中純一郎映画資料に含まれるチラシ等よって明らかになる(田中氏は『日本映画発達史』をはじめとする、日本映画史研究のパイオニアとして著名)。そのチラシの殆どは前出図録『シネマ・シティ―横浜と映画』に掲載したが、とくに巡回興行の草分け弁士として有名な駒田好洋が「書翰を受ける処」として横浜喜楽座を指定した明治38年の年賀状は、駒田と喜楽座との縁の深さがうかがえる資料である。

  駒田が残したスクラップブックは日本映画史研究家の本地陽彦氏・新田図書館によって整理されたが、日露戦後の喜楽座活動写真のチラシには、「世界一の馬鹿大将と粗忽の従者との滑稽」の邦題のある「ドンキホーテ」や、「汽車中に於ける敗徳紳士の大失敗」「ハイカラ男の失意と水兵の得意」など、明らかに劇映画と思われるフィルムが登場している。

  写真4は、明治41年(1908)10月公開、京都横田商会「本能寺合戦」のチラシである。この映画は、京都千本座の狂言方(舞台監督)である牧野省三が撮影の指示をしたという、日本映画監督第一号の誕生を画したフィルムとしてとくに有名である。そして「本能寺合戦」喜楽座公開の翌々月、横浜最初の映画常設館「Mパテー電気館」が賑町2丁目にオープンした。

  横田商会の横田永之助は、仏リュミエール社のシネマトグラフを輸入して、大阪・南地演舞場での活動写真本邦初公開(明治30年2月15日)をした稲畑勝太郎から映画事業を継承した。横田もまた自ら巡業隊を組織し、全国に映画を普及した草創期の1人であり、日本初の映画スター尾上松之助を見いだして、生涯1千本余といわれる映画に出演させるきっかけを作った。大正元年(1912)、横田商会は吉沢商店・福宝堂・Mパテーとともに「日本活動写真株式会社(日活)」を組織し、横田は同社の重役となり、昭和2年(1927)社長に就任する。日活は、大正・昭和初期は横浜館を、震災後は喜楽座を系列下に置いてゆく。

写真4 喜楽座「本能寺合戦」
田中純一郎映画資料・群馬県太田市立新田図書館蔵
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(平野正裕)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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