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館報「開港のひろば」バックナンバー


展示余話
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場

  平成17年度第1回企画展示「神奈川お台場の歴史」では、万延元年(1860)に築造された神奈川台場を紹介し、この台場が横浜にやって来た諸外国の外交官との儀礼交換上の礼砲の発射地として活用されたことを明らかにした。また、展示には約120点の資料を出品したが、その中に慶応2年(1866)に来日したイタリア使節ヴィットリオ・アルミニヨンの日本見聞記(『日本および軍艦マジェンタ号の航海』)があり、特に神奈川台場がイタリア使節アルミニヨンと礼砲を交換したことを記した箇所を展示した。

  横浜が、安政六年(1859)にアメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランスの5カ国と通商するための港として開かれたことは良く知られている。その後、幕府は慶応四年(1868)までの9年間にポルトガル・プロシァ・スイス・ベルギー・イタリア・デンマークとも通商条約を結び、横浜はこれらの国々の人びととも交流する舞台となった。しかし、横浜が幕末にこうした国々にも開かれたことは案外知られていない。まして、神奈川台場が、そうした国際交流の舞台であったことはほとんど知られてこなかった。そこで、ここではアルミニヨンの日本見聞記の中から神奈川台場に関する記事を紹介したい。

  ちなみに、アルミニヨンはイタリアの海軍軍人で、日本との通商を求めて来日し、慶応2年7月16日(1866年8月25日)に日伊修好通商条約を江戸で締結した人物である。彼が、マジェンタ号に乗って東京湾に入ったのは5月22日のことで、5月29日に神奈川奉行早川能登守とマジェンタ号上で会見した。席上、早川はアルミニヨンの来日の目的を尋ね、マジェンタ号の備砲について調査した。また、早川が辞去するに際し、アルミニヨンは礼砲を発射することを提案し、日本側からも答礼の礼砲を発射することを求めた。こうして神奈川台場がイタリア使節との会談で話題として取り上げられることになった。

  アルミニヨンの見聞記によれば、早川はイタリア国旗を拝借することを求め、1時間後に神奈川台場から答礼の砲を発射すると答えている。その後、早川はマジェンタ号を離れ、午後2時にイタリア国旗が台場周辺の丘に翻り、その数分後に15発の礼砲が神奈川台場から発射された。アルミニヨンは、日本でイタリア国旗が掲揚されたのはこの時が初めてであったと記しているから、5月29日は日本とイタリアにとって記念すべき日であったことになる。

  ところで、慶応2年(1866)に国交を開いた日本とイタリアは、その後、急速に関係を深めて行った。特に、慶応年間末年から明治10年代初頭にかけて、日本から大量の蚕種(蚕の卵)が輸出されるようになると、その多くがイタリア北部の養蚕地帯に送られるようになった。当時、イタリアの養蚕地帯では蚕の病気が流行しており、その回復をはかるため良質な日本の蚕種が求められたわけだが、国交樹立後の横浜には蚕種を購入するために多くのイタリア商人がやって来た。

「開港のひろば」第89号
2005(平成17)年8月3日発行

表紙画像
企画展
ドン・ブラウンと戦後の日本
企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から
資料よもやま話1
大同学校校舎?いえ、幻のクラブ・ハウス
資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ
閲覧室から
新聞万華鏡(20)
明治初年の外国新聞
資料館だより

  彼らは毎年夏から秋にかけて来日し、居留地の外国商館に泊まって蚕種を買い集め、日本の蚕種製造業者は大量の蚕種を横浜に持ち込むことになった。ちなみに、日本を代表する蚕種製造業者であった田島家にはイタリア商人との取引について記した古記録が残され、サビヨやマツオキと呼ばれるイタリア商人が数万枚単位の蚕種を購入したと記されている。

  横浜での国際交流といえば、最初に日本と通商条約を結んだアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの5カ国の人びととの交流が話題になることが多い。しかし、日本は横浜開港後、幕府が倒壊するまでの間だけでもイタリアを始め、ポルトガル・プロシァ・スイス・ベルギー・デンマークなどと国交を結んでいる。神奈川台場はこうした国々と交際するに際し、礼砲を発射するという重要な役割を果たしてきた。また、人びとは礼砲発射とともに掲揚される諸外国の国旗を眺め、日本の国際化が着実に進んでいることを知ることになった。また、国際都市ではさまざまな民族・国家・人種が交流を繰り広げたが、神奈川台場はそうした国際都市のあり方を人びとに教える存在であったのかもしれない。


イタリア使節 アルミニヨンの日本見聞記(横浜開港資料館蔵)

(西川武臣)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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