資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ
明治30年(1897)3月9日、予定より3日遅れて、住吉町の港座で仏リュミエール社「キネマトグラフ」が公開され、横浜での活動写真上映の歴史が始まった。映写機は、東京新橋の吉沢商店(錦絵・郵便切手・写真機などの貿易商)が、在日イタリア人ジョヴァンニ・ブラッチャリーニから手に入れたもので、そのフィルムは12本あったという。内容は「停車場の雑踏、海水浴場の景状、小供遊び、美人踊数種、その他総て原形の儘活々飛動するものにて」と『東京朝日新聞』にはある。
東京での映画初公開は、神田錦輝館(きんきかん)(エジソン社「ヴァイタスコープ」)で、同月6日であった。そして、浅草電気館が、本邦初の映画常設館として営業を始めるのは、6年後の明治36年(1903)10月、横浜はさらに5年遅れて、明治41年12月のMパテー電気館(のちの敷島館)の開業をまたなくてはならなかった。それはとりもなおさず、常打ちするにはフィルムが乏しいことに起因するが、映画館が不在であったことは、活動写真人気が高くなかったわけではなく、むしろその逆であった。
しかしながら当時の活動写真の資料はまことに乏しい。頼るべき資料は新聞記事であるが、今日まとまって目にすることが出来る唯一の横浜の新聞「横浜貿易新聞」「横浜貿易新報」は、自ら「実業本位」を標榜することもあって、明治後期の芸能・文化に関する記事はあきれるほど少ない。昨年度実施した横浜都市発展記念館企画展示「シネマ・シティ―横浜と映画」の準備過程で得られた初期横浜映画史の一次資料をここで少し詳細に紹介しよう。
1 実写から記録映画へ
横浜で初めて活動写真を上映した港座は、横浜公園に近い位置にあり、劇場街の伊勢佐木町から遠い場所にある二流の芝居小屋であった。港座の活動写真に関する一次資料として最もふるいものは、明治32年(1899)6月に公開された「西米戦争活動大写真」のチラシ(写真1)である。
スペインの植民地である、キューバ、フィリピンに米国が軍事介入したこの戦争実写フィルムは、「米国従軍写真師万死ヲ犯シテ撮影」、「危険ノ恐レナク戦争ヲ見ル事ヲ得ルハ活動写真ナリ」とうたっている。停車場の雑踏や海水浴場の景状など「総て原形の儘活々飛動する」といった、今日のホームビデオのような素朴で何の演出もない映像とは違い、ニュース性が高いエジソン社のフィルムである。これは吉沢商店がロンドンから輸入し、港座公開の前日まで神田錦輝館で上映されていたことを故塚田嘉信氏が『映画史料発掘』で明らかにされている(この点、図録『シネマ・シティ―横浜と映画』では明治31年港座公開と誤断した。つつしんで訂正する)。
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