1898年12月10日号および17日号の『ジャパン・ウィークリー・メイル』によれば、初代のクラブ・ハウスは、1870年代前半に横浜公園の西隅に建てられた。確かに1880年代初頭の写真を見ると、公園の端に平屋建ての建物が確認される。その後1884年に2階部分を増築し、2代目のクラブ・ハウスとしてスタートした。この年は組織の合同が行われた年にあたる。
やがてこの建物も手狭になったため、1897年の年次大会で建て替えが決議された。そして、1898年に3代目クラブ・ハウスが竣工した。設計者はJ・M・ガーディナーである。
この新しいクラブ・ハウスはマツ材を使った2階建てで、色はダーク・レッド、屋根には時計台が設けられていた。時計台は図1の右側円筒形部分の上部になるが、図2ではそれがはっきり確認できる。
建物の1階にはバー・更衣室・入浴室・スポーツ用品の倉庫などの設備が整い、2階には昼食やアフタヌーン・ティーが楽しめる大広間や会議室があった。
開所式は12月10日に開かれ、会長のモリソンは挨拶の中で3代目クラブ・ハウス完成にいたるまでの長年の労苦を述懐した。また当日は記念のフットボール大会や自転車競技会が賑やかに行われた。
図2 3代目クラブハウス
坂本勝比古著『明治の異人館』より

クラブ・ハウスの焼失
しかし、待望の3代目クラブ・ハウスの寿命は短かった。1901年2月14日18時15分、消防署に火事発生の一報が入る。消防隊は現場に急行したが、木造ゆえ火の手がはやく建物は全焼した。わずか2年あまりしか存在しなかったため、この建物の写真は、現在2枚しか確認されていない。
図1は1902年出版の『新民叢報』に掲載された写真だが、撮影はクラブ・ハウスが焼失する1901年2月14日以前である。「横浜大同学校」の旗を掲げているので、横浜公園で行われた何らかの集まりに参加した際の記念写真だろうか。なお、その後3代目のイメージを踏襲した4代目クラブ・ハウスが築かれるが、時計台は復活しなかった。
『大同同学録』
大同学校の開学と2代目クラブハウスの創建は、ともに1898年のことである。大同学校の校舎については、「1922年、航空写真に見る中華街」(『開港のひろば』第85号)に写真を掲載したので、そちらを参照されたい。なお、校舎の写真や「横浜大同学校兵式体操図」など、大同学校関係の貴重な写真を収録した馮錦龍編『大同同学録』(宣統元(1909)年刊)を広東省立中山図書館が所蔵している。この度、神戸の孫中山記念館のご仲介により、当館でその複製を閲覧公開することができた。請求番号はA376-5-Cである。
(伊藤泉美)
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