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館報「開港のひろば」バックナンバー


企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から
−アメリカ軍の対日宣伝ビラ


 占領期のブラウンの活動の前提となったのが、戦時中の情報機関での活動であった。

  ブラウンは1942年9月、戦時情報局(OWI)ニューヨーク支部に入局し、太平洋宣伝ビラ課で対日宣伝ビラ作成に携わった。ビラのデザインや文章作成など、作成に直接携わったのではなく、案の修正や完成ビラの配布・管理などをおこなっていたようである。

  宣伝ビラとは、敵を降伏させるところまでいかなくても、敵の戦意を喪失させることで自軍の被害を減らし、戦争終結を早めることを目的とした心理戦の手段のひとつで、「紙の爆弾」ともよばれる。

  ブラウンの手元に残ったビラのほとんどはアメリカ側のものだが、日本側が作成したビラも少しある。参考資料としたのであろう。

  アメリカ側が作成したビラの一部には、担当部署の解説文が付してある。対日ビラは当然、日本語で書かれているため、その英訳とビラのねらいなどが記されている。またビラ原稿も何種類か残っている。

  展示では会期中に一部入れ替えをおこなって、なるべく多くのビラを紹介する予定でいる。

  ここでは、その中のごく一部を関係史料も交えて紹介しよう。


(1) 「優待慈悲 聯合国」作成年不明

  日本兵捕虜がいかに優遇されているかを示そうと、捕虜生活を撮影した写真を掲載したビラもみられる。

  紹介したビラは、表の図柄は同じだが、裏面の日本兵捕虜の写真に目隠し用の白枠があるものと、ないものの二種類がある。一般的にアメリカ軍は、ビラに日本兵捕虜の写真を載せる際、身元が特定できないよう目隠しをすることにしており、目隠しのないビラはめずらしい。

(1)
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「開港のひろば」第89号
2005(平成17)年8月3日発行

表紙画像
企画展
ドン・ブラウンと戦後の日本
企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から

(1)「優待慈悲 聯合国」作成年不明
(2)「勇者生あり」[1944年]
(3)ブリスベーンで作成した宣伝ビラ
(4)「オーストラリアが悲鳴を上げる」作成年不明
展示余話
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場
資料よもやま話1
大同学校校舎?いえ、幻のクラブ・ハウス
資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ
閲覧室から
新聞万華鏡(20)
明治初年の外国新聞
資料館だより


(2)「勇者生あり」[1944年]

  大皿に盛られた鮨の写真を画面いっぱいにカラー印刷し、飢餓に苦しむ日本兵に投降を呼びかけている。

  「諸君は力限り奮闘せるも最早断末魔の迫っている事は諸君自身でさへ分っている」として、その戦闘を讃えながらも、補給路を断たれた日本兵に対して、「君自身に対し、君の一家に対し、引ては将来の更生新日本に対しても今慎重に此の道を取る事を考えるは君の義務である」と、投降するよう説得する言葉を続けている。

  裏面左端には「生存への関門の通過證」として「生存證」が付してある。投降という言葉は使っていない。

  アメリカ国立公文書館には、この「鮨」の投降ビラとそのスライド写真をブラウンから受け取った旨の、ニューデリーOWI事務所からニューヨーク支部宛て書簡(44年5月付)が保管されていた。ニューヨークで印刷され、さらに現地でも追加作成され、ビルマ戦線で撒かれたと考えられる。

  絵柄とまったく同じ鮨のスライド写真が、ブラウン・コレクションに、60年以上経った今日でも色褪せることなく現存している。


(2)







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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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