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館報「開港のひろば」バックナンバー


(3)ブリスベーンで作成した宣伝ビラ

  戦争初期の1942年3月、日本軍のフィリピン攻略戦に破れてオーストラリアのブリスベーンに逃れたマッカーサーは、44年10月、フィリピン奪還作戦を開始した。

  これに先立つ44年7月、OWIニューヨーク支部にいたブラウンはブリスベーン行きを命じられた。OWIの記録には、その目的を現地事務所の宣伝ビラ作成の立ち上げに協力し、同時に現地が必要としていることを学び取り、今後のビラ作成計画に活かすことだと明記している。マッカーサーのこの作戦開始に向けて派遣されたのであろう。

  ちょうどこの44年10月、ブリスベーンで作成された宣伝ビラの一覧が、ブラウンの手元に残されていた。ビラの種類と撒布枚数、増刷の状況が記されており、ビラの原物も付されていた。

  18種類中、マッカーサーを扱ったビラが6点もあり、その内の3点の作成部数が各100万枚という数字が際立つ。フィリピン脱出時にマッカーサーが発した有名な言葉「アイ・シャル・リターン(私は必ず帰る)」を念頭においた「アイ・ハブ・リターンド(私は帰ってきた)」という言葉を全面に押し出したビラもみえる。

(3)
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(4)「オーストラリアが悲鳴を上げる」作成年不明

 これは、日本軍が作成したビラである。敵の日本軍の宣伝活動を知る資料として、ブラウンの手元に集まってきたビラの一枚である。

 内容から、ニューギニア島でアメリカ兵と連合して日本軍と戦うオーストラリア兵に向け作成されたことがわかる。留守中のオーストラリアでは駐留するアメリカ兵がオーストラリア兵の恋人に乱暴をはたらこうとしている絵が描かれている。両国の兵士の分断を企図したのだろう。

「開港のひろば」第89号
2005(平成17)年8月3日発行

表紙画像
企画展
ドン・ブラウンと戦後の日本
企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から

(1)「優待慈悲 聯合国」作成年不明
(2)「勇者生あり」[1944年]
(4)「オーストラリアが悲鳴を上げる」作成年不明
展示余話
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場
資料よもやま話1
大同学校校舎?いえ、幻のクラブ・ハウス
資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ
閲覧室から
新聞万華鏡(20)
明治初年の外国新聞
資料館だより

  総じて日本軍が作成したビラには、性に訴えた品位の落ちるものが多いとされるが、ブラウン・コレクション中のビラも同様である。

  対するアメリカ側の日本人研究は日本に較べると、格段に進んでいた。アメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトは、OWIで日本研究に取り組み、日本人の行動パターンと、その背後にある文化を分析した。その研究をもとに戦後、日本文化研究に影響をあたえた『菊と刀』を著したことは、その顕著な例である。


(4)
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新刊紹介

『図説 ドン・ブラウンと昭和の日本−コレクションで見る戦時・占領政策』
横浜国際関係史研究会・横浜開港資料館編


およそ半世紀にわたる日本との関わりの中でブラウンが残したコレクションの全貌を、ブラウンの足跡をたどりながら紹介し、アメリカの戦時・占領政策を、多数の写真図版を用いて明らかにしています。
有隣堂発行
A4判変型 120ページ、定価2,940円(税込)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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