HOME

WHAT'S NEW!

横浜の歩みと横浜開港資料館

利用案内

交通アクセス

施設案内と「たまくすの木」

ショップから

閲覧室でご覧になれる資料

蔵書検索(Web-OPAC)

館報「開港ひろば」
最新号
総目次
バックナンバー

画像(写真等)の利用について

リンク集
HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第89号

館報「開港のひろば」バックナンバー


閲覧室から
新聞万華鏡(20)
明治初年の外国新聞

   外国人居留地では幕末から外国語の新聞が発行されていましたが、その経営についてはあまり資料がありません。そのなかに、石井研堂著「明治初年のヘラルド事情」(『新旧時代』2年7冊 大正15年10月)が見られます。この資料は、大正6年(1917)9月の太田長四郎の談話をまとめたものです。太田は長崎県出身で、明治3年(1870)、22歳の時にヘラルド新聞社に入り、明治12年に独立して印刷業に携わりました。当時の様子がうかがえるので、紹介しようと思います。

  『ジャパン・ヘラルド』が創刊したのは1861年11月のことです。長崎で『ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー』を発行していたイギリス人ハンサードが横浜に移って発行しました。

  太田が入社した頃のジャパン・ヘラルド社は、居留地61番地にあり、ブルックが社長でした。1872年版『ジャパン・ガゼット・ホン・リスト・アンド・ディレクトリー』によると、所有者兼編集者のブルックのほか、マネージャー、会計係、職工長、植字工などと中国人2人、日本人5人がいたようです。1875年版の同書では、事務所を28番地に移転し、日本人は15人に増えています。『横浜毎日新聞』には、明治5年4月8日からジャパン・ヘラルド社が出した写真師の求人広告が載り、29日からは職工募集の広告が度々載っています。

  太田によると、当時、西洋人の月給が80円位だったのに対し、日本人で1番高い人の月給は、20円内外だったそうです。

  『ジャパン・ヘラルド』は、創刊当初は週刊紙のみでしたが、1863年には日刊の朝刊紙を発行し、1868年頃からは日刊の夕刊紙が中心となりました。4頁建てで、版を組み上げてから印刷機械に乗せると30分もたてば摺り上がったそうです。1頁と4頁は2時頃に、2頁と3頁は5時頃に摺り、その晩のうちに配達していました。印刷部数は250枚から270枚くらいでした。一番多い時で、450枚摺ったということです。また、バックナンバーを毎日20枚位は残していたそうです。代金は月3ドル、1年30ドルで、日曜日が休刊でした。部数が少なくても、配達場所が離れているため、配達は7人で行い、給料は月4円50銭から6円位だったそうです。

  新聞の広告は、唐物や雑貨が主でしたが、広告料は、1インチ平方1日1円で、度数の多い場合は割引になりました。船の出帆広告などは年幾らと料金の特約をしていました。

「開港のひろば」第89号
2005(平成17)年8月3日発行

表紙画像
企画展
ドン・ブラウンと戦後の日本
企画展
「ドン・ブラウンと戦後の日本」展から
展示余話
イタリア使節アルミニヨンと神奈川台場
資料よもやま話1
大同学校校舎?いえ、幻のクラブ・ハウス
資料よもやま話2
横浜に映画館がなかったころ
資料館だより

  明治3年12月8日付の『横浜毎日新聞』創刊号には、「横浜居留地及び山手の図」の販売広告が載っています。このほか、明治5年4月の同紙には、活字やインキ、西洋紙の販売広告が掲載されています。

  ジャパン・ヘラルド社が、新聞の購読料のほかに、広告料、印刷料収入を得、輸入品の販売なども手がけていたことがわかります。


海外向け『ジャパン・ヘラルド・メイル・サマリー』
1884年10月9日

(上田由美)





このページのトップへ戻る▲




最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
この頁の内容の著作権は横浜開港資料館に属します。Copyright(c)1999 Yokohama Archives of History. All rights reserved.