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館報「開港のひろば」バックナンバー


企画展
神奈川台場保存運動の系譜

残された「稟申書」

  横浜開港資料館には昭和11年(1936)3月13日に青木市長に提出された「稟申書」の原本が残されている。この書は、横浜史料調査委員会のメンバーであった加山道之助や中山毎吉ら七名によって記され、神奈川台場の史跡としての重要性や歴史を記し、埋め立ての中止を求めていた。歴史的な事件について年号が違っている箇所があるが、史跡保存を訴える強い気持ちが伝わってくる名文であり、以下に全文を掲げておきたい。

「現在、神奈川区漁師町地先ニ残存スル石垣ノ一部ハ所謂史書ニ伝フル神奈川御台場ノ史蹟ニシテ即チ横浜市ニ於ケル発祥・展進・堅固・完成ヲ物語ル遺蹤ニ属スルモノニ候。嘉永六年、異国黒船渡来ニ驚愕シタル幕客ハ海陸ノ防備ヲ唯一ノ急務トナシ、就中内海諸所ノ防護施設ヲ執行セント各藩ノ力作ニ任セシモノ、此神奈川台場ハ伊予松山藩主松平隠岐守ガ藩費参万両余ヲ抛ツテ営築シ、安政四年ノ開港ニ先ンジテ着手、砲台築造ノ地ヲ卜(ボク)定シテ遂ニ文久ノ初年ニ亘リ東西百二十間、南北百七十五間、面積八千弐百八十八坪六合余、高サ三丈ノ台場ノ完成ヲ観シモノニ有之候。権現山ヨリ土塊ヲ搬出セシ当時ノ苦辛ハ俚謡ニ残リテ以テ想像スルニ足ルヘク是カ焦眉ノ急ヲ済ヒ内外ノ依憑信頼ヲ鍾メテ世人思想ノ安定ヲ図リシ効積ノ大ナリシハ尚今日ヨリモ懐スルヲ得へク而カモ此史蹟ニ佇立スルコト久シキ時ハ歴ニ幕末ヨリ維新ニ到ルノ活躍経過ヲ如実ニスルヲ惟フモノ有之。然ルニ大正十年頃ヨリ漸次埋立ノ事アリ。今カ更ニ狭少ナル此遺跡ヲ全ク氓滅セシメントスル計画アルヤヲ聴ク、是レ洵ニ稀珍ノ史蹟ヲ永久ニ消失スルノ挙ニシテ惜ムヘキノ極ミナルノミナラズ。後世臍ノ悔ナキヲ保セストスルモノニ有之候。輓近ノ傾向タルヤ些々タル遺蹤ト雖、保存ト顕揚ノ方法ヲ講究シ以テ世人風教ノ資、国民道義ノ材トスルハ言ヲ俟タサル所、世挙ケテ寧ロ此事ニ熟中スルニ膺リ況ヤ此史蹟ノ如キハ其ノ価値ノ貴重ナリ。時代的影響ノ結果トシテ止ムヲ得サルニ出ヅル儀アリトスルモ目観スル所ノ遺趾ニ対シ保存ト顕彰トノ施設ヲ御考究アランコトヲ冀フモノニ有之候。是ニ関スル具体的案議ハ巨細ニ拘懐スルモノアリ。仍テ茲ニ御一考ヲ煩ハシタクト。右及稟申候次第ニ御座候。敬白」

青木市長に提出された「稟申書」当館蔵
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「開港のひろば」第88号
2005(平成17)年4月27日発行

表紙画像
企画展
神奈川お台場の歴史
企画展
神奈川台場保存運動の系譜

『史談会速記録』の中から
『横浜市史稿』の編纂
関東大震災と埋立の進行
その後の台場保存運動
史跡としての台場の価値
展示余話
「100年前の横浜−『横浜案内』の世界−」展『神奈川写真帖』の魅力
資料よもやま話1
渡辺修二郎の横浜資料(下)
資料よもやま話2
O. M. プールと息子リチャード
閲覧室から
新聞万華鏡(19)
明治初年の村と新聞
資料館だより


その後の台場保存運動

  当館には昭和11年(1936)8月9日に刊行された新聞の切り抜きが残されている。切り抜きには、「稟申書」の提出を受けて横浜市が神奈川台場を史跡に指定したこと、台場前面の埋め立てが中止になったことが記されている。

  しかし、昭和20年代に刊行された地図では、台場前面の海面は完全に埋め立てられている。この間の事情については史料が残っていないため詳しい経過について知ることはできない。しかし、戦時中から敗戦直後にかけて埋め立てが進められたようである。

  また、台場保存運動も戦時中は進展しなかったが、昭和29年(1954)に横浜市・神奈川県・横浜商工会議所は協力して「開国百年祭」を開催し、祭の一環として台場を始めとする史跡の指定がおこなわれた。

  当時の横浜は戦後の混乱期にあり、横浜市は都市の復興に苦慮し続けていた。そうした状況下で、横浜がもっとも輝いていた開国から開港にかけての史跡を顕彰することが計画された。

  この時、史跡の指定と「史跡標柱」が設置されたのは12ヵ所で、これらの場所では、現在もほとんどの場所に市長平沼亮三が記した「史跡標柱」が建っている。また、かつて神奈川台場があった場所にも標柱が設置され、土中に姿を消した台場のことを現在に伝えている。

史跡としての台場の価値

  神奈川台場が、幕末期の土木技術や軍事技術の水準を現在に伝える遺構であることは間違いない。また、平成14年(2002)に横浜市教育委員会によって実施された試掘によって、遺構が完全な形で残っている個所があることが確認され、発掘がおこなわれれば、こうした研究に大きな成果がもたらされることは間違いない。

  さらに、台場の歴史を明らかにすることによって、横浜が国際都市・商業都市として発展してきた歴史を考えることも可能である。たとえば、台場の建設は巨大な土木工事であり、工事には多くの建築資材と労働者を必要とした。また、資材を運ぶためのインフラの整備や労働者に食料や日常消費物資を供給するための組織も必要であった。

  台場の遺構は、そうした当時の経済発展の度合いを現在に示してくれる。また、台場建設に際しては、現在の首都圏と呼ばれる地域から労働者が集まっているし、警備にあたった松山藩や古河藩の藩士が本国から台場に赴任することもあった。

  さらに、諸外国の外交官や旅行者が旅行記の中で台場について記すこともあり、台場をめぐってさまざまな交流があったようである。開港後の横浜は内外の人びとが交流する場所として注目を浴びたが、台場もそうした場所のひとつであった。台場を訪れ、こうした横浜の歴史に思いを馳せることもできる。

  また、国際紛争や諸外国との友好関係を考える上でも、台場の存在は重要である。西洋諸国の港では、港の入口に砲台が置かれ、砲台は近代的な港に不可欠な施設であった。その役割は港の防衛と儀礼のための祝砲発射であり、神奈川台場もこうした役割を果たしてきた。

  ちなみに、幕末から明治初年という時代は、必ずしも平和な時代ではなく、神奈川台場の歴史は、そうした日本の歴史と軌を一にしてきた。たとえば、文久3年(1861)から翌年にかけて、日本では攘夷派の活動が活発になり、イギリスやフランスなどが攘夷派に対する示威行動を取るため多くの軍艦を横浜に集結させた。

  こうした状況下、台場は日本側の軍事拠点として機能し、戦争が勃発すれば台場が最前線になる可能性を持っていた。また、戊辰戦争に際しては、新政府軍が横浜を接収すると同時に、重要な軍事拠点として台場を管轄下に置いている。

  幸いなことに台場が軍事目的に使われたことはなく、明治時代以降は祝砲の発射地としてだけに使用された。しかし、台場が戦争と平和の間で揺れ動いた施設であることは間違いなく、神奈川台場はこうした問題を考える上でも重要な史跡である。

  台場の跡地を訪れ感じることは人それぞれである。しかし、横浜開港150年を迎えようとしている現在、我々は台場の歴史を考えることからなにかを学ぶことができるのかもしれない。ともあれ展示を見て、開港以来の横浜の歴史を少しでも知っていただければと思う。

(西川武臣)





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最終更新日2006年8月20日  Last updated on Aug 20, 2006.
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