その後の台場保存運動
当館には昭和11年(1936)8月9日に刊行された新聞の切り抜きが残されている。切り抜きには、「稟申書」の提出を受けて横浜市が神奈川台場を史跡に指定したこと、台場前面の埋め立てが中止になったことが記されている。
しかし、昭和20年代に刊行された地図では、台場前面の海面は完全に埋め立てられている。この間の事情については史料が残っていないため詳しい経過について知ることはできない。しかし、戦時中から敗戦直後にかけて埋め立てが進められたようである。
また、台場保存運動も戦時中は進展しなかったが、昭和29年(1954)に横浜市・神奈川県・横浜商工会議所は協力して「開国百年祭」を開催し、祭の一環として台場を始めとする史跡の指定がおこなわれた。
当時の横浜は戦後の混乱期にあり、横浜市は都市の復興に苦慮し続けていた。そうした状況下で、横浜がもっとも輝いていた開国から開港にかけての史跡を顕彰することが計画された。
この時、史跡の指定と「史跡標柱」が設置されたのは12ヵ所で、これらの場所では、現在もほとんどの場所に市長平沼亮三が記した「史跡標柱」が建っている。また、かつて神奈川台場があった場所にも標柱が設置され、土中に姿を消した台場のことを現在に伝えている。
史跡としての台場の価値
神奈川台場が、幕末期の土木技術や軍事技術の水準を現在に伝える遺構であることは間違いない。また、平成14年(2002)に横浜市教育委員会によって実施された試掘によって、遺構が完全な形で残っている個所があることが確認され、発掘がおこなわれれば、こうした研究に大きな成果がもたらされることは間違いない。
さらに、台場の歴史を明らかにすることによって、横浜が国際都市・商業都市として発展してきた歴史を考えることも可能である。たとえば、台場の建設は巨大な土木工事であり、工事には多くの建築資材と労働者を必要とした。また、資材を運ぶためのインフラの整備や労働者に食料や日常消費物資を供給するための組織も必要であった。
台場の遺構は、そうした当時の経済発展の度合いを現在に示してくれる。また、台場建設に際しては、現在の首都圏と呼ばれる地域から労働者が集まっているし、警備にあたった松山藩や古河藩の藩士が本国から台場に赴任することもあった。
さらに、諸外国の外交官や旅行者が旅行記の中で台場について記すこともあり、台場をめぐってさまざまな交流があったようである。開港後の横浜は内外の人びとが交流する場所として注目を浴びたが、台場もそうした場所のひとつであった。台場を訪れ、こうした横浜の歴史に思いを馳せることもできる。
また、国際紛争や諸外国との友好関係を考える上でも、台場の存在は重要である。西洋諸国の港では、港の入口に砲台が置かれ、砲台は近代的な港に不可欠な施設であった。その役割は港の防衛と儀礼のための祝砲発射であり、神奈川台場もこうした役割を果たしてきた。
ちなみに、幕末から明治初年という時代は、必ずしも平和な時代ではなく、神奈川台場の歴史は、そうした日本の歴史と軌を一にしてきた。たとえば、文久3年(1861)から翌年にかけて、日本では攘夷派の活動が活発になり、イギリスやフランスなどが攘夷派に対する示威行動を取るため多くの軍艦を横浜に集結させた。
こうした状況下、台場は日本側の軍事拠点として機能し、戦争が勃発すれば台場が最前線になる可能性を持っていた。また、戊辰戦争に際しては、新政府軍が横浜を接収すると同時に、重要な軍事拠点として台場を管轄下に置いている。
幸いなことに台場が軍事目的に使われたことはなく、明治時代以降は祝砲の発射地としてだけに使用された。しかし、台場が戦争と平和の間で揺れ動いた施設であることは間違いなく、神奈川台場はこうした問題を考える上でも重要な史跡である。
台場の跡地を訪れ感じることは人それぞれである。しかし、横浜開港150年を迎えようとしている現在、我々は台場の歴史を考えることからなにかを学ぶことができるのかもしれない。ともあれ展示を見て、開港以来の横浜の歴史を少しでも知っていただければと思う。
(西川武臣) |