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「開港のひろば」第145号
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企画展
開港前後の横浜
村びとが見た1858〜1860
今年は横浜が開港した安政6年(1859)から160周年にあたります。
当館ではこれを記念して、「浮世絵でめぐる横浜の名所」「カメラが撮らえた横浜」と、浮世絵・古写真を題材に開港後の横浜の風景を企画展で紹介してきました。開港160周年記念第3弾となる本展では、開港の安政6年6月から前後に1年ずつ、計2年間(1858年なかば〜1860年なかば)に時期を絞って、横浜市域内外の村に伝わった歴史資料から、この間の横浜開港場のようすを解説します。
安政5年6月19日、日米修好通商条約が横浜市域の海上に停泊するアメリカ艦ポーハタン号上で締結されました。日本と横浜の運命を大きく変えたこの条約。締結前後の慌ただしい海上の動きは、本牧(現中区)の村びとによって書き留められていました。
翌安政6年3月、横浜村で開港場と港の建設工事がはじまり、わずか数ヶ月のうちに村は港町に変貌します。この港湾建設(波止場の築造)に、大物の石材請負人が関与していたことが、三浦半島の村(現横須賀市)の古文書から判明します。
6月2日の開港を迎え、できあがったばかりの横浜の開港場に外国商人と欧米の外交官が船でやってきます。開港直後の町のようす、そして来航した外国船の情報を記した記録が、信仰の山として知られる大山の棟梁の資料(現伊勢原市)のなかに残されていました。
横浜開港後の外国貿易と言えば生糸が思い浮かびます。しかし、中国で発生したアロー戦争の影響で、開港翌年(万延元年)の横浜には軍事物資が各地から集まっていました。田無の村(現西東京市)の文書からは、横浜に運搬用の馬が送られていたことがわかります。
開港前後というともう少し長いスパンをイメージするかもしれません。しかし、本展示ではこの2年間に焦点を絞ることによって、その変貌の過程をもう少し事細かに見ていきたいと思います。なお展示では、横浜村に住まう架空のキャラクターを設定し、「地元の村びとが横浜の変貌をどのように見たのか」という視点から、160年前の横浜をわかりやすく紹介します。
(𠮷﨑雅規)