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「開港のひろば」第145号
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企画展
開港前後、横浜の港と町
神奈川県立公文書館蔵永嶋家文書と手中明王太郎家史料から
開港直後の町と外国船
開港した横浜の町の繁栄ぶりは浮世絵や古写真、あるいはさまざまな古文書にとどめられている。しかし、それらの多くは開港からしばらく経った時期のもので、安政6年6月2日の開港直後の様相については、さほど多くの記録が残されているわけではない。ところが今回、横浜の町の様相と来航した外国船の情報を開港の数日後に記した古文書を、やはり神奈川県立公文書館の寄託資料から見出すことができた。
資料は「横浜御開港并異船渡来之模様左之通」と題されたもので、文中の記述から安政6年6月8日に作成されたものと推定される。資料が伝来した手中明王太郎家は、相模国大住郡大山の大山寺(伊勢原市)で創建以来棟梁を務め、また御師も兼ねた家である。この記録を書いた人物の名は記されないが、実際に横浜に赴いてその様相をつぶさに見ていたようで、情報はなかなか具体的である。以下全文を紹介する(文書の体裁は一部変更した)。
横浜御開港并異船渡来之模様左之通
横浜御開港場運上役所并御役宅・外国人仮官所等多分出来相成、当月二日御開港相済、町方之分五ヶ町表通り其外脇ニ入込候町家も追々出来相成、呉服・太物類并塗物箱類・鳥屋・薬種店・荒物・酒店其外諸商店当月朔日ゟ昨七日迄凡百軒余店開致、賑々敷市中相成申候、遊女町之方者壱万五千坪御渡之場所悉地窪水中同様之所ニ而、右之内三千坪程切形致長家弐棟出来相成申候
六月朔日未下刻入
一 亜米利加船 弐艘
内 蒸気船 壱艘
商船 壱艘
六月五日品川沖江廻り申候
六月五日卯上刻入
一 蘭商船 壱艘
同二日卯中刻入
一 英吉利蒸気船 壱艘
同二日未上刻入
一 蘭蒸気船 壱艘
同日未下刻入
一 蘭商船 壱艘
一 英国軍艦 壱艘
同三日卯下刻入
一 英国蒸気船 壱艘
〆 八艘
右之通追々渡来横浜江碇泊罷在、然ル処横浜異国人共仮官所手狭之趣ヲ以神奈川宿江外国人旅宿左之通
一 亜米利加人 神奈川宿青木町
旅宿 本覚禅寺
一 阿蘭陀人 神奈川町
同 成仏寺
一 英吉利人 神奈川宿青木町
同 浄龍寺
是者品川沖ゟ引戻し其上滞留致由
一 横瀬(浜カ)村 戸部村 太田新田
右小林藤之助支配所之処、昨七日神奈川奉行江郷村引渡ニ相成申候由之事
神奈川宿
本陳源太左衛門方旅宿
村垣淡路守
酒井隠岐守
右御両人日々横浜運上所江御出張、組頭其外役々者横浜江引越ニ相成候向も有之候
まず注目できるのは、開港直後の横浜の日本人町について述べた冒頭の部分である。「五ヶ町(本町・海辺通・北仲通・南仲通・弁天通)はメインストリートのほか、裏通りの町家まで次々と完成になり、呉服・太物類(綿・麻織物)・塗物箱類・鳥屋・薬種店・荒物(雑貨)・酒店そのほかの諸商店が、六月一日から昨日七日までおよそ百軒余り開店し、市中が賑やかになっている」との記述から、横浜の町の商店の業種と軒数、開店の時期が具体的に明らかになる。開港直後のかかる情報が同時期の史料から確認できるのはなかなか貴重である。
外国船の入港が時刻まで明らかになるのも興味深い。6月1日午後3時前頃に来航したアメリカ船2艘は、公使ハリスの搭乗したミシシッピー号とハード商会のワンダラー号と思われる。そのほか、5日午前5時過ぎ頃に来航したオランダ船まで、計8艘の外国船について入港日時を記している。開港直後の出入港船については『横浜もののはじめ考』(第三版、横浜開港資料館、2010年)がすでにまとめているが、その内容を補うデータとしても重要であろう。
以上、開港の直前直後の横浜の様相を知りうるふたつの歴史資料を紹介した。この時期の横浜を物語る同時代の資料は乏しく、ほんの数枚の古文書であっても、新たな情報を私たちに与えてくれるのである。
(𠮷﨑雅規)