横浜開港資料館

HOME > 館報「開港のひろば」 > バックナンバー > 第123号

館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第123号
2014(平成26)年1月25日発行

表紙画像

展示余話
ヘボン関係資料発見!

酒井家は尾張国中島郡山崎村(現愛知県稲沢市)を出自とする武士であったが、三河国加茂郡福田村(現愛知県みよし市)に改易となり、4代利道の時に眼科医を開業し、現在に至るまで眼科医を営む旧家である。写真1の第12代利泰は、嘉永6(1853)年に10代利亮の二男として生まれ、漢籍を学ぶほか、医学を叔父の酒井健蔵らに学んだ。明治6(1873)年に家督を相続し、眼科医として開業したが、明治8年5月から翌年5月頃まで横浜十全病院に入塾し、シモンズやヘボンのもとで医学を学んだ。福田に帰ってからは医院を再開し、横浜で学んだ西洋医学の知識を生かし、地域医療に貢献した。また明治27(1894)年には三好村長となっている。大正5(1916)年に家業を息子の利孝に譲り、大正14(1925)年に73歳で死去した。

利泰は、伝統的な漢方の技術だけではなく、西洋医学を学びたいと考え、明治8年4月に東京へ向かい、伊東玄朴の婿養子で、オランダとドイツへの留学経験をもつ伊東方成への入門を希望した。しかし叶わず、ヘボンのもとで学ぼうと横浜へ移った。5月16日付の兄宛の書簡には下記のようにある。「西洋人ヘボント云人ハ眼科ニ而塾生モ三十名位、患者モ身分者之由ニ御座候間、夫江入塾仕度存候処、幸ニ真野氏同塾之内ニ周旋いたし呉候人有之候間、明十七日横浜江相発候心組ニ御座候」とあり、真野の紹介でヘボン塾へ入塾するため、横浜へ行く決心をしたことがわかる。

しかしヘボンのもとでも学ぶことができず、同年5月、十全病院へ入塾することになった。その際の顛末が、5月20日付の書簡に詳しい。利泰は、横浜の蓬莱町に住む緒方道民を訪れ、ヘボンのもとでの研修を斡旋するよう依頼した。「蓬莱町一町目五番地緒方道民君之御宅ニ行望之通相咄且ヘボン先生江入塾仕度様申候処、同氏曰ヘボン先生ハ至極宜布人ニ候得共、当時自分診察ハ一月ニ四五回ノミ、其他ハ皆門人之診察故実地御見物御望ニ而は至当トハ難申候、乍然御望なれバ周旋いたすへき様被申候ニ付大ニ望ヲ失シ候処、同所ニセメンス先生と申人医院ヲ開、門人モ三十名余患者モ日ニ三四十名、其内眼病患者モ沢山有之候間、其方御入院いたし候而ハ如何哉抔深切ニ被申呉候ニ付、野生も同意故周旋方偏ニ願度様申出候処、迅速ニ入院取斗被呉本月廿日十時頃同道ニてセメンス之医院江入社、大ニ安心仕候」と記されている。

同年10月9日付の兄宛書簡によると、十全病院の患者数か減少していたので、ヘボンの診療所にも通学している。しかしヘボンの治療は土曜日だけなので、月に3・4回の見学に過ぎない。最近は十全病院の患者数も増加してきているが、やはり東京の眼科専門医の元で研修をしたいと記している。

展示で紹介した11月28日付の書簡には、「最早当院ニ七ケ月も罷在候処、内医眼之手術一名も無之碌々として費光陰候も甚タ不本意之到ニ御座候間、是非〃〃奮発可仕心組ニ候、乍然於当院不遠両三名全身解剖有之候ニ付何レ廿日除(ママ)(余)日数相懸可申、左候ハゝ今年中除(ママ)(余)暇も無御座間、来一月ニは早々東京江転居仕度」とある。十全病院で眼科手術の経験ができないまま、7ヶ月も過ぎてしまったこと、これから20日ほどを要する解剖があり、今年中は転居できないが、来年早々には東京へ転居したいと記している。

利泰は、伊東方成への入塾を希望していたが、叶わなかったようで、明治9(1876)年5月、十全病院を辞めて郷里へ戻り、6月末から医業を再開した。

利泰は横浜で約1年を過ごしたが、その間に郷里へ送った書簡から、ヘボンの治療を見学している研修医が30人ほどもいること、明治8年から9年頃、ヘボンの治療は週1回土曜日のみで、他の曜日は弟子が治療に当たっていたことなど、ヘボンの施療の様子が分かる。また十全病院で、20日程をかけて解剖が行われていたことも記されており、十全病院の授業内容も分かる貴重な資料である。

≪ 前を読む      続きを読む ≫

このページのトップへ戻る▲