横浜開港資料館

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館報「開港のひろば」バックナンバー

「開港のひろば」第118号
2012(平成24)年10月24日発行

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展示余話
リチャードソンのご子孫、初来浜
「生麦事件激震、幕末日本」展

記念講演会でのご挨拶

9月9日、横浜市歴史博物館で、保谷徹氏(東京大学史料編纂所教授)を講師にお招きして「生麦事件からみる幕末の日本と世界」という演題で展示記念講演会が開催された。定員150名のところ多数の応募があり、満員盛況であった。

ご夫妻も講演会に出席され、ウェイス氏は講演の前に短い挨拶をされた。

講演会で挨拶をするウェイス氏
講演会で挨拶をするウェイス氏

「皆様、私はマイケル・ウェイスです」という覚え立ての日本語で始まったウェイス氏のご挨拶を、以下に紹介したい。

犠牲者の一族として初めて来浜して墓参を果たし、短い日数であったが縁の地を訪ね歩いた、そのお気持ちを聞いてみたいと思った人たちは多いだろう。スピーチはその問いへの返答とも言える内容であった。

なお通訳は日英交流史研究家の大山瑞代氏にお願いした。生麦事件展開催にあたり、大山氏には資料調査やリチャードソン書簡の翻訳などで多大なご協力をいただいた。

私は、1862年、生麦で殺害されたチャールズ・レノックス・リチャードソンの一番上の姉の曾孫です。幸運なことに、私はリチャードソンが上海と日本からイングランドの家族に書き送った80通ほどの書簡を相続しています。

チャールズ・リチャードソンは1833年にロンドンで生まれ、その後も両親と4人の姉妹と共にロンドンで暮らしていました。父親はロンドンの金融街で仕事をしていましたが、自分自身のお金の管理は苦手だったために、金銭面での将来を息子に託すことになりました。その結果、1853年、19歳のチャールズは、上海で生糸貿易に携わっていた叔父のジョン・レノックスのもとに送り出されたのです。

当時、上海は貿易港として開港されて、しばらく経っていましたが、チャールズは数年のうちに、若い成功者として上海における英国人社会の一員になりました。そして、父親に送金をする余裕もでき、さらに成功者として、父親に家計のやりくりに関する助言を与えるまでになりました。

1860年頃までには、チャールズは、日本がアメリカや英国などと条約を結び、通商を開始していることを知り、日本が彼自身にとっても商業活動の可能な場所ではないかと考えるようになったのですが、その一方で、イングランドに戻りたい気持ちも強かったのです。実際、友人の勧めで日本行を決めた時点で、彼は既に、帰国する汽船の予約を済ませていたのです。ともかくも彼は1862年6月に日本にやってきました。

父親宛ての手紙に「日本滞在中、様々なところを見て回りました。山や海の景色は抜群です。日本はイングランドを出て以来私が訪れた最高の国です」と伝えています。

上海では商売に成功して、イングランドに戻ることを楽しみにしていた、その矢先、皆様もご存じのとおり、1862年9月14日に生麦事件が起きました。彼の悲劇的な死が伝えられた時の家族の悲しみと衝撃は大きかったに違いありません。

しかしその一方で、私はこの事件について、また、近代日本の発展におけるこの事件のもつ重要性についてさらに学んでいくと、この事件をめぐり、当時の日本人が如何に対処したかを知り、感銘を受けるようになりました。

ご存知のとおり、英国当局と幕府と薩摩藩との間の交渉は長引き、結局、1863年、英国の艦隊が鹿児島を砲撃し、町の多くを破壊し、住民の命を奪いました。

にもかかわらず、その20年後には、鶴見の住人であった黒川荘三氏が、チャールズの死を悼み、生麦事件の起きた土地を買い取り、立派な記念碑を建てました。そして、記念碑には、「リチャードソンのことは歴史の中に記録されるべきである」という意味の詩文が刻まれました。

さらに事件から150年の今日、素晴らしい展示が、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館の2館において開催されています。今回の展示の中で、リチャードソンという人物に光を当ててくださっていることは、とりもなおさず、黒川氏と当時の村の人びとがリチャードソンのために追悼の意を表して下さった思いに通じます。

私は私の祖先および現在の家族一同を代表して、皆様の寛大で温かいご配慮に対して、心からの感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

最後に、お招きした当(公財)横浜市ふるさと歴史財団および歴史博物館、開港資料館への感謝の言葉を述べて、スピーチを終えられた。

満員の講演会場
満員の講演会場

ご夫妻は翌10日、成田を発って帰国の途に就かれ、無事にロンドンのご自宅に戻られた。

なお、ウェイス氏のご挨拶を本紙上で紹介するにあたり、講演会主催者の横浜市歴史博物館から快諾を得るとともに、講演会場などの写真の提供も受けた。

(中武香奈美)

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