HOME > 施設案内と「たまくすの木」たまくすの木
ハマの歴史の生き証人、たまくすの木です。
「たまくす」ヒストリー
〈写真をクリックすると新しいウィンドウを開き拡大表示します〉
横浜開港資料館の中庭にあるタブノキは、通称「たまくす」と呼ばれています(1)。
「たまくす」は、江戸時代、横浜がちいさな農漁村であったころからこの地にあり、1854(嘉永7)年のペリー来航時に艦隊に随行してきた画家ハイネが描いた「横浜上陸」(2)や、「水神の祠」(3)などに描かれた木がそれにあたると考えられています。
1859(安政6)年、横浜は開港場となり、外国人居留地と日本人市街とをわける位置にある「たまくす」は、浮世絵にも登場しています(4)。しかし、関内地区に大きな被害をもたらした1866(慶応2)年の大火によって、「たまくす」は樹形が変わるほど焼失してしまいました。
大火に先立ち、水神の森周辺は領事館用地に指定されていましたので、被害をうけた「たまくす」は、イギリス領事館の庭で新たな芽をふくことになりました(5)。 そして、明治・大正期をつうじて横浜を代表する名木に成長します(6)。資料には「開港の当時ペルリ提督初めて上陸せしハ此玉楠の下なり、今は英国領事館構内にあり、横浜市の記念名木として市の保存に係る、数百年を経たる大樹なり」と記録されています。
1923(大正12)年9月1日、関東大震災で、「たまくす」はふたたび大きな被害をうけますが(7)、その生命は絶えることはありませんでした。イギリス領事館が再建されるに先立ち、1930(昭和5)年6月、「たまくす」は領事館の敷地内に約10メートル、現在ある位置に移植されますが、震災の被害をうけてなお豊かな葉を繁らせていることがわかります(8)(9)。
二度の大きな被害をくぐり抜けた「たまくす」は、1981(昭和56)年日米和親条約締結の地に開館した横浜開港資料館を象徴する有形文化財として、そして近代横浜の生き証人として、今日もうるおいのある光景を与えてくれています(10)。
参考文献・岩野修:「歴史の証人『玉楠』は三代目?」『開港のひろば』73号(2001.8.1)