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閲覧室でご覧になれる資料〈5〉画像資料「写真」

【概要】

 写真とは「感光膜の上に定着した映像」のことをいう。最近では電気や磁気の変化によっても映像が記録されるようになったが、それらは当館が収集の対象とする歴史資料には含まれていない。写真はまた、映像がその上に記録される基体や、感光膜を構成する化学成分と一体のものとして把握した場合の「資料(Material)としての写真」と、情報としてのみ把握した場合の「情報 (Information) としての写真」に分けて考えることができる。後者を複製によって再現しやすいことは写真の大きな特徴である。保存の対象となるのは前者であり、したがって形態によって分類するのが便利だが、後者は主題によって分類するのが便利である。資料サービス施設としての当館では、後者のかたちでの活用の便宜を図るべく、積極的に複製化を進めている。
 横浜はわが国写真発祥の地の一つであり、ここを舞台に幕末からプロ・カメラマンが活躍した。外国人ではベアト、日本人では下岡蓮杖、その弟子の鈴木真一など。なかでもイギリス人ベアトは質の高い風景・風俗写真を残しており、当館では意欲的に収集してきた。明治10年代以降になると、外国人を対象に、名勝風景や日本人の生活・習慣などを撮影し、プリントに手彩色を施し、蒔絵の表紙を付したアルバムや、ガラス板に焼き付けて彩色した幻灯板写真が多く製作された。製作者として、外国人ではスティルフリートやファルサーリ、日本人では日下部金兵衛や玉村康三郎などが名高い。これらの写真には、過去の風景や文物、人びとの生活に関する豊かな情報が含まれており、当館では歴史資料の一分野として、関係資料ともども収集している。
「資料(Material)としての写真」は映像がそこに記録される基体に着目して、紙・ガラス板・金属板などに分類できるが、当館の収蔵品の大半は印画紙であり、ほかにかなりの数の幻灯板ガラス写真を収蔵している。

【総数】ガラス板幻灯写真:15箱(約1,000枚)、写真アルバム:40冊(約2,000枚)、ステレオ写真:5箱(約300枚)
【年代】幕末・明治・大正・昭和期
【閲覧】複製写真
【複写】複製写真からの電子式複写
【検索】当館編・刊『F・ベアト幕末日本写真集』(1987年))、横浜都市発展記念館・当館編『文明開化期の横浜・東京:古写真に見る風景』(有隣堂、2007年)、当館編『彩色アルバム:明治の日本』(有隣堂、1990年) 、横浜都市発展記念館・当館編『横浜ノスタルジア:昭和30年頃の街角』(2007年)等
【備考】斎藤多喜夫「写真の考古学」(『地方史研究』234号、1991年)、同「博物館・資料館における写真の保存と活用について」(『神奈川県博物館協会会報』65、1993年)、同『幕末明治 横浜写真館物語』(吉川弘文館、2004年)

【主な資料】

(1)ガラス板

  1. アンブロタイプ(湿板写真法によるガラス板上のネガ像を黒い紙や布の上に置き、ポジ像に反転して見せるもの)―諸家文書に付随するものや寄贈を受けたものなど若干点数を所蔵している。「咸臨丸提督木村摂津守肖像写真」など
  2. 幻灯板(感光材料を塗布したガラス板に焼き付けたもの。石油ランプを光源とする幻灯器によって壁面に写しだす)―横浜を中心に外国人向け写真の製作が活発になる明治10年代中頃から盛行する。50枚程度まとめて箱に詰めて販売されることが多かった。当館では15箱(約1,000枚)所蔵するが、その大半は日下部金兵衛の製作になる明治中期の風景・風俗写真である。

(2)紙

印画紙―1850年に鶏卵紙と呼ばれる印画紙が発明されると、湿板写真法と結びつき、ガラス板上のネガ像を焼き付けて良質なポジ像を大量に作成できるようになった。それによって、写真がビジネスとして確立し、営業写真師や写真館が叢生することになった。その後さらにアリストタイプやP.O.P.(Printing out Paper)など、保存性が高く量産可能な印画紙が考案されるが、印画紙を感光材料や製法によって分類するのは容易でなく、当館では写真の用途とそれに規定された外形上の相違に着目して、次のように分類している。

  1. 単体―手札判(Carts des Visites)と呼ばれる小型の写真には、名刺代わりに交換されたものと、現在のブロマイドと同じように販売された政府高官・役者・芸妓の写真がある。当館ではいずれも若干枚収蔵するが、とくに資料価値の高いものとして、イギリス外交官アーネスト・サトウが同僚や日本の政府高官から受け取った写真がある。
  2. アルバム―これはさらに次の三つに区分できる。
    i)販売用―写真館が風景・風俗写真を貼付して販売したもの。蒔絵に螺鈿細工を施した木製の表紙は、人工着色を施された鮮やかな色彩の写真とともに、 それ自体外国人の目を引く工芸品であり、明治中期に横浜を中心として盛んに製作された。いわゆる「横浜写真アルバム」である。
    当館では40冊のアルバム(約2,000枚)を収蔵している。幻灯写真をも含め重複を除く約1780枚ほどが風景写真で、地域別にはやはり関東地方が最も多い。風俗写真は主題別にみると、いわゆる「美人もの」が一番多く、職業尽くし、駕籠や人力車など乗物関係、農村風景や稲作・畑作・養蚕・製茶関係がこれに次ぐ。これらによって、横浜写真の全容をほぼ把握できよう。
    製作者の判明するものとしては、日下部金兵衛のアルバムが7冊、ファルサーリ商会のアルバムが3冊、スティルフリートと臼井秀三郎が各2冊、玉村康三郎が1冊ある。
    ii)記録用―官庁の委嘱による官営事業の記録や、自然災害の記録などがある。
    「明治初期ニ於ル横浜及ビ其近傍」(鈴木真一撮影 1876年頃) 「横浜水道写真帳」(鈴木真一撮影 1887年) 「関東大震災 被害状況写真帳」など。
    iii)個人用―単体写真を購入して市販のアルバムに貼り込んだもの、アマチュア写真家が自ら作成したものなどがある。「香港上海銀行社員E.W.タウネンド氏個人アルバム」など
  3. ステレオ写真―起源は古いが、著しく流行したのは20世紀初頭のアメリカである。50枚、100枚単位の箱入りの形で販売された。当館では5箱、約300枚所蔵。
  4. 貼付写真―写真製版技術が考案される前には、挿画の位置に写真そのものを貼付することが行われた。資料としては新聞・雑誌や図書の範疇に属するが、複写されたものは「情報としての写真」に属する。写真と文字の結びつきが緊密であり、資料価値の高い写真が多い。
    "The Far East"(新聞・雑誌)・Brinkley,"Japan"(洋図書)など。

(3)広瀬始親撮影写真[2016.10.28更新]

広瀬始親(ひろせ・もとちか)氏(1915−2013)が撮影し当館に寄贈された、昭和30年頃の横浜の写真。「広瀬始親写真展 横浜ノスタルジア:昭和30年頃の街角」(横浜都市発展記念館・横浜開港資料館主催、2007年2月1日〜4月15日)で展示した写真については、複製写真(ファイル「広瀬始親氏撮影写真1・2」)の閲覧が可能。このほか、横浜都市発展記念館・横浜開港資料館編『横浜ノスタルジア:昭和30年頃の街角」(2007年)、および横浜開港資料館編『広瀬始親写真集 横浜ノスタルジア:昭和30年頃の街角』(河出書房新社、2011年)も出版している。

(4)メアリー・A・ルジェーリ・コレクション (The collection of Mary A. (Kiddie) Ruggieri)[2016.8.31公開]

【解説】1946年10月、米陸軍婦人部隊(WAC)所属の軍曹(Technical Sergeant)として来日し、1948年4月まで横浜市中区のカマボコ兵舎で暮らしたメアリー・ルジェーリ(Mary A. (Kiddie) Ruggieri 1921−2013)が残した写真アルバム全9冊の複製である。ルジェーリは横浜での生活や、旅行先の日本各地の風景・風俗を自ら撮影した。この写真アルバム9冊には、その多くをルジェーリ本人が撮影したと考えられる約4000枚の写真が収められている。アメリカ人女性の目に映った戦後間もない横浜の街や人びとの生活、カマボコ兵舎内の米軍兵士の生活などをとらえた貴重な記録写真となっている。
【原蔵者】リチャード・ルジェーリ(Richard Ruggieri)
【総数】11冊(複製本冊数)
【年代】〔1946〜1948年〕
【閲覧】複製本(文書150)
【検索】「メアリー・A・ルジェーリ・コレクション複製目録」
【備考】Mary A. (Kiddie) Ruggieri, ”From Japan with love 1946-1948,”Portsmouth, 2007、大西比呂志「アメリカ女性下士官が撮した占領下の横浜 メアリー・ルジェーリ・コレクション」(『国際交流研究』16、2014)、中武香奈美「特別資料コーナー 占領期の写真コレクション初公開」他(『ひろば』124、134)

(5)その他

外国人相手の土産物として写真が製作された横浜では、さまざまなものを基体とすることが試みられた。当館では日下部金兵衛が絹にプリントしたものやそれを団扇に仕立てたもの、水野半兵衛の金蒔絵写真等を若干所蔵している。


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